1951年、日本の主権回復が認められたサンフランシスコ講和条約が締結。その翌年、横浜港や関内地区の接収の大部分は解除された。しかし、本牧の米軍住宅(約70ha)などは日米安全保障条約にもとづく両政府の取り決めで「無期限使用」となり、1982年の返還まで”フェンスの向こう側”となる。
「気づいたらフェンス」
生まれも育ちも中区本牧間門の嶋田昌子さん(74)は、45年の8月15日、軍医だった父を中心に家族全員がラジオの前に集まり、正座して玉音放送を聴いたという。そして、間門の家から200mほどのところに「気づいたらフェンスがあった」と、自宅の接収は免れた。
現在の本牧通り沿い一帯は5月の大空襲で焼け野原。そこを整地し米軍住宅が建ち並んだ。「広大な土地に芝生が広がり、白い家がポツンポツンとありました」と嶋田さんは話す。
終戦当時4歳、フェンス越しのアメリカに「怖いと感じたことはない」と言う。ただ、子どもながらにフェンスの中に入ることは「危ないこと」と理解していた。
小学校では米軍住宅との交流もあった。その一つがクリスマス会。嶋田さんは、そこでもらえるプレゼントが楽しみだったと振り返る。
「中身じゃなくてきれいなラッピングがうれしくて。リボンがきれいだなと思っていました」と話す。また、米兵のズボンを見て「まっすぐにラインが入っていて格好良かったわ」。
当時、横浜の市街地に出るには本牧通り沿いに走っていた市電が唯一の交通機関。エリア1・2(現イオン付近)を通過するときの車窓は、右も左も米軍住宅。それは嶋田さんにとって親しんだ日常の風景だった。
82年の接収解除後は、「理想的な街づくりができる。それに関われるという喜びがありました」と話す。実際に、街づくり団体に携わり「大通りにあった桜を何本か山頂公園に移すことができました。今でも春にはきれいに咲いています」と笑顔で話す。
米軍への思い様々
身近にあったアメリカ。嶋田さんは「戦争を何歳で体験したかによって思いが違う」と話す。また「空襲により家が焼けたり、接収で住まいを追われたり、それぞれの経験によってアメリカに対する感情はまったく異なるのでは」と語った。
嶋田さんは、悲惨な戦争体験が無いからこそ、客観的に歴史を学ぶことの大切さや戦争体験者の話に耳を傾け追体験する重要性を指摘していた。
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