本牧 気まぐれ歴史散歩 【11】 根岸湾にあった3つの飛行場
昭和初期から昭和30年代までに、根岸湾には3つの飛行場がありました。2つは昭和20年まで根岸湾を滑走路とした全幅40m程度の大型の水上飛行艇用のもので、その1つは現在の富岡総合公園あたりに、もう1つは現在の根岸のプールセンターあたりにありました。富岡は海軍用として、根岸は民間旅客用として使われていました。
根岸から飛び立つ水上飛行艇は、第一次世界大戦後のパリ講和会議によって、ドイツの植民地から日本の委任統治領となった南太平洋と日本を結ぶものでした。昭和15年からわずか数年間のことでしたが、大きな水上飛行艇が本牧沖へと飛び立っていたことも、根岸からサイパン・パラオへ飛行機で行けたことも、今では想像できないことです。ちなみに運賃はうどん一杯10銭の時代に片道350円以上、現在だと150万円くらいでしょうか?
残り1つの飛行場は、終戦後に米軍小型飛行機用のものとして、現在の間門交差点から根岸駅へと続く海沿いに作られました。こちらは終戦後に伊勢佐木町・若葉町が接収され造られていた米軍飛行場が根岸湾沿いに移転してきたものです。写真の飛行機の後ろに写っているのは根岸の尾根。根岸には今もこの写真の面影が残っています。
さて、このコラムも根岸までまいりました。次回は「本牧」の範囲とはどこかという検証をしてみたいと思います。かつて横浜は本牧の一部に過ぎなかった!?というお話です。(文・横浜市八聖殿館長 相澤竜次)
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地元奉仕団体 新会長の横顔 Vol.710月17日 |