本牧 気まぐれ歴史散歩 【13】 生麦事件と本牧
文久2(1862)年8月、薩州島津久光一行の列に乱入した騎上のイギリス人たちを、供回りの家臣たちが斬りました。いわゆる「生麦事件」です。翌年には薩英戦争が勃発し、その後、日本は倒幕・維新へと一気に変革の時代へと突き進むことになりました。
この事件が、実は現在の本牧およびその周辺の原型を作ったといっても過言ではないかもしれません。
生麦事件・薩英戦争ののち、英仏蘭米4か国は幕府に対して、居留地に住む外国人が安全に通行できる道路や、道路沿いへの軍事訓練場・競馬場・病院・屠牛場の整備、居留地・墓地の拡張などを求めました。幕府はこの4か国の要求を受けて、元治元(1864)年、12か条からなる「横濱居留地覚書」を締結しました。こうして覚書に従い、幕府は本牧や山手に各施設を新設し、居留地や墓地も拡張しました。
この結果、現在の本牧周辺の主要道や大和町商店街・根岸森林公園・山手地区・山手外国人墓地の原型が出来上がりました。病院・屠牛場は現存しませんが、跡地は公共施設となっています。小6の授業でこの話をすると、子供達は「うちの前の道だ!」と気づき、教科書の歴史が急に身近なものとなることで、歴史への関心も高まってくるようです。
外国人遊歩道が整備されたことで、幕末・明治の本牧地域の写真も多く撮影されました。次回は、その中から2枚の写真をご紹介いたします。
(文・横浜市八聖殿館長 相澤竜次)
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