本牧 気まぐれ歴史散歩 58 『横浜開港と明治維新と根岸共同墓地』
江戸時代にはキリスト教の信教が禁じられ、人々は必ずどこかの仏教寺院の檀家となり、寺院も宗門人別帳という名簿を作って管理することが義務付けられました。これを寺請制度といい、寺院が役所機能の一部を担い、現在の戸籍制度の原型となっていきました。
江戸中期になると、村人も墓を持ち、檀那寺に葬儀や供養を依頼するようになりました。寺院も安定した収入を確保するため、墓地や末寺を増やし、檀家の獲得を図りました。幕末に開港場となった横浜には全国から人々が集まり、横浜とその近郊にあった寺院の檀家数は一気に増えました。さらに檀那寺は横浜で成功した商人らの寄進を受けるようになったので、寺院の規模はさらに増大しました。しかし明治維新になると、それらの寺院も神仏分離・廃仏毀釈・寺社領没収などの影響で墓地の維持に困窮するようにもなりました。
一方、神道化と神葬志向が高まっても神社が墓地を所有していなかったこと、刑法上・衛生上の観点から死亡届の義務と埋葬場所の限定が必要になったこと、計画的な都市開発と地租改正を進めるために墓地の場所を明確にせねばならないことも重なり、公設の大規模な墓地の設置が急務となりました。こうして横浜町では明治7年(1874年)に久保山墓地が、根岸村では明治10年(1877年)に根岸共同墓地が設置されました。
郷土の歴史を築いた多くの先人たちが眠る場所に一礼し、このあとも路地散策を続けます。(文・横浜市八聖殿館長 相澤竜次)
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