本牧 気まぐれ歴史散歩 80 「元の海岸線」 物流の基盤になるところ
中村川から根岸湾へ注ぐ堀割川は、陸地を掘削して尾根も切通して築いた運河なので、明治初期に行われたその工事は困難を極めたようです。逆に海を干拓したり、埋め立てたりして新田開発などするときには、元の陸地と新しく造る陸地との間に隙間を造っておけば、隙間部分はもともと海だったことから、その隙間が水路として活用できます。現在のように陸上輸送が盛んではなかった時代には、水路の確保が物流にとって必須だったので、もとの陸上と埋立地の間には、必ず隙間が造られ、水路として活用されました。新田間川・石崎川・蒔田より下流の大岡川や中村川は、新田開発によって出来た運河です。
昭和38年(1963年)から本格化した本牧地先と根岸湾の埋め立ての時代には、運河を活用した物流から陸上輸送が中心となったことから、もとの陸上と埋立地の間には運河ではなく鉄道や道路が敷設されていきました。埋立工事計画の中に道路や鉄道の敷設計画も入っていることから、埋立地上では地権者から用地を買収する必要もありませんでした。
本牧原から本牧元町の陸地と埋立地の間の隙間は、運河となっています。物流目的ではなく、雨水などの排水路として活用されていますが、昭和38年に埋め立てられる前まではどこまでが海だったのかが実感できる場所です。
運河から疎開道路に戻ったら、石碑を見つけました。見てみようと思います。 (文・横浜市八聖殿館長 相澤竜次)
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