東京都で生まれた井上さん。画家を志す中で、彫刻家の信道さんと結ばれ横浜へ。今も暮らす神奈川区内の自宅兼アトリエで79年前の5月29日、横浜大空襲を経験した。
普段は横浜の海が見えたという窓からの景色は、文字通り火の海に変わった。空襲の黒煙で、午前中の空は夜のように真っ暗。燃えるような熱風が自宅の周囲を吹き荒れた。
5発の焼夷弾
娘の静子さんをお腹に宿していた井上さん。娘の命を守ろうと、部屋の中でコートなどを何枚も重ね着して鉄兜をかぶって、戦禍を無事に生き延びた。
自宅には5発の焼夷弾が落ちた。そのうち一つは、信道さんが避難した自宅の庭の防空壕で燃え上がった。なんとか脱出した信道さんは出血と大火傷を負いながらも、庭の炎を絨毯で鎮火。自身は用水池に飛び込み火傷の応急処置を行ったという。「庭の木々の葉から水が吹き出る音も覚えている。植物もなんとか生き延びようとしていたんだと思う」と異様な光景は鮮明に記憶に残る。窓際に落ちた不発弾により天井には大きな穴が。現在もその痕跡は残り、戦争の恐ろしさを物語る。
終戦直後に疎開先の静岡で、静子さんを出産。すぐに自宅に戻ったが、戦後の暮らしは水や食糧不足も深刻だった。貴重な配給を受け取りに、二ツ谷町まで静子さんを抱えながら長い坂道を歩いた。「どうして私たちがこんな酷い目に遭うんだ」と辛さに耐えながら必死に生き抜いた。
次世代に伝えたい
「戦争はいつだって若者たちの命が奪われていく」と話す。自身の弟も出征が決まると、町内からは万歳の声で送り出された。最後まで「行かないで、行かないで」と願った弟とは結局それが今生の別れとなった。甥はシベリアに出兵。京都の舞鶴港に復員の船が来るたびに名簿を見たが、その名を見ることはなかった。
大切な人の命が奪われる戦争の悲惨さを「次の世代にも知ってもらいたい」と話す。静子さんの名前には「平穏で静かな時代」への願いが込められている。「二度と戦争を起こさない、平和な社会を作って行ってほしい」と希望を託す。
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