「土木事業者・吉田寅松」㉖ 鶴見の歴史よもやま話 鶴見出身・東洋のレセップス!? 文 鶴見歴史の会 齋藤美枝 ※文中敬称略
七カ月で開通
日光鉄道会社の創立委員長の渋沢栄一は、日光鉄道の計画が中止になったあとも、井上勝鉄道局長と相談をつづけた。
井上局長は、大宮からの日本鉄道の支線として建設すれば、工期も短縮し営業経費も低く抑えられると判断し、日本鉄道会社社長の奈良原繁に相談した。
奈良原は株主総会の承認を得て、日本鉄道会社が日光鉄道を買収することになった。ちなみに、奈良原繁は、文久二年の生麦事件で、リチャードソンを斬った奈良原喜左衛門の弟である。
この工事を吉田寅松が請負い、地形が平たんな宇都宮・今市間を明治二十三年一月に起工し、六月に開通させた。
さらには急勾配の続く今市・日光間の工事を進め、明治二十三年八月一日には宇都宮・日光間の全線四十・五キロをわずか七カ月で開通させた。
宇都宮・日光間の鉄道開通により、外国人観光客も多く訪れるようになり、日光の人たちの喜びは大きかった。険阻な山を削り、その土で湿地を埋める難工事を竣工させた吉田寅松や、一度はあきらめかけた宇都宮・日光間の鉄道建設を叶えてくれた井上局長らに感謝し、保晃会有志が中心になり明治二十七年に「日光鐡道碑」を建てた。
国際避暑地へ
故郷イギリスの風景と似た中禅寺湖と奥日光の自然をこよなく愛したアーネスト・サトウは、明治二十九年に中禅寺湖畔に山荘を建て、趣味の登山などを楽しんだ。
それ以来、中禅寺湖畔には各国の大使館をはじめ外国人が別荘を建てるようになり、夏でも涼しい奥日光は、国際避暑地として知られるようになった。
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