「土木事業者・吉田寅松」46 鶴見の歴史よもやま話 鶴見出身・東洋のレセップス!? 文 鶴見歴史の会 齋藤美枝 ※文中敬称略
東京市街電車の発展に寄与
吉田寅松は、東京の市街電車の発展にも一役買っていた。
明治二年五月、下岡蓮杖らが設立した成駒屋が横浜・東京間で乗合馬車の営業をはじめた。
明治七年七月、新橋・京橋間の道路が改修され、道幅約八間ある大通りの中央四間を馬車道として整備し、左右の各二間から二間半は地元地主の負担で、両側を人道と区別し、歩道には松や桜や木などの街路樹を植えた。道幅が七間だった銀座煉瓦街は十五間幅に拡張し中央八間を馬車道、左右それぞれ三間半を人道として歩道には煉瓦を敷き詰め、馬車道部分には砂利を敷き詰めた。
明治七年八月、由良守応(もりまさ)が東京市中で乗合馬車の営業をはじめた。
明治四年の岩倉使節団に参加した宮内省職員の由良は、イギリスで二階建馬車や二輪馬車、女王を乗せて走る荘厳な四輪馬車に魅せられ、明治六年に帰国後、天皇のお召し馬車の輸入を嘆願し実現させ、自らがお召し馬車の御者となった。しかし、天皇・皇后を乗せた馬車が転覆したため、由良は責任を取って辞職し、イギリスから二階建て馬車「オムンバス」を二台輸入し、馬車会社「千里軒」を開業。浅草雷門・新橋駅間で乗合馬車の運行をはじめた。毎朝六時から午後八時まで一日六往復。途中の乗り降り自由。御者はビロードの服にナポレオン帽、黒塗りの車体、豪華な四頭引きの二階建馬車は人目を引いたが、開業早々からしばしば事故を起こし、九月には馬が暴走して十八歳の女性をひいてしまった。
東京府は、たびたび事故を起こし死者まで出した二階建馬車は営業停止とし、危険防止のため二階付き馬車を禁止した。千里軒は二階部分を取り壊して営業を再開したが、その後も事故が相次ぎ明治十三年に廃業した。その後、浅草松葉町の大久保政五郎が十二台の馬車で雷門・新橋間で、品川の赤井久蔵が品川・新橋間で、それぞれ乗合馬車を開業。
ガタクリ馬車
乗合馬車は、定員や運賃などの決まりはなく馬丁の駆け引き次第で一日の収入が、一頭立て馬車で八円、二頭立てで十二円もの収入があったので、参入者が増え競争が激化していった。千里軒の馬車は、大型で本格的な馬車だったが、ほとんどが小型で安価な馬車を一両か二両で営業する零細営業者で、車両は粗末なものがおおく、「ガタクリ馬車」「ガタ馬車」などと呼ばれていた。
ハイカラな洋服を着た馭者が片手で、プープープププーとラッパを吹き鳴らしながら、東京市中を新しい時代の風をなびかせて颯爽と走るハイカラな乗合馬車。時代の最先端を走ることを誇るように御者が吹き鳴らす異国的なラッパの音色、馬のいいなき、轍の響きに人々は感激し、熱狂した。落語家の四代目橘家圓太郎も、この新しい異国情緒ただよう乗合馬車に魅了され、高座の出囃子代わりに、乗合馬車の馭者をまねて、本物の真鍮のラッパを吹きながら高座に上がり人気を博したことから、乗合馬車は「円太郎馬車」と呼ばれ、親しまれた。
明治七年、高島嘉右衛門が新橋を起点として日本橋を経て浅草橋から浅草広小路にいたるものと、日本橋から万世橋を渡り上野にいたるものの二路線の馬車鉄道開業願を提出した。しかし目抜き通りは人車道区別工事が完了していたが、千里軒の大馬車が開業早々から事故を続発していたこともあり、千里軒よりも大型の馬車を走らせることへの危惧から、高島嘉右衛門の馬車鉄道計画は認可されなかった。東京の市街地では、ガタ馬車と人力車の黄金時代がつづいた。
乗合馬車の営業路線は新橋ステーション前から、京橋・日本橋・浅草橋・蔵前通りを経て浅草雷門までの路上にひしめき、熾烈な競争を続けていた。明治十四年二月には、市内乗合馬車の営業者は七十五人、馬車百二十四両と急増していた。
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