「土木事業者・吉田寅松」47 鶴見の歴史よもやま話 鶴見出身・東洋のレセップス!? 文 鶴見歴史の会 齋藤美枝 ※文中敬称略
東京市街馬車鉄道
明治十三年、鹿児島県出身の銀行家種田誠一と外交官の谷元道之が、同郷の先輩で財界の重鎮になっていた五代友厚の後ろ盾を得て資本金三十万円の東京馬車鉄道会社を設立。種田、谷元、五代らは欧米への留学経験があり、ニューヨークやロンドンでは急速に市街馬車鉄道が普及しているのを見聞し馬車鉄道の利便性を肌で感じていた。
明治十五年六月二十五日、新橋・日本橋間に二・五キロメートルの日本で最初の馬車鉄道が開業した。
道路の上にレールを敷いて大型馬車が走るというので、開業当日から大勢の群衆が沿道を埋め尽くした。開業当時イギリス製の大型乗合馬車三十一両、馬四十七頭だったが、年末には馬は二百二十六頭になっていた。車体上部には「東京市街鉄道馬車」、側面には車体番号が書かれていた。
十月には、日本橋・上野・浅草を循環する環状線の営業を開始した。品川・上野・浅草間などの路線を拡張した乗合鉄道馬車により市民生活の利便性は向上した。
一方、乗合馬車や鉄道馬車の運行により道路が損壊し、砂塵や馬糞が飛散し、雨が降るとたちまち泥の海となり、雨が上がってもすぐには乾かず、磨き上げの靴、買ったばかりの駒下駄では道路を横切ることもできないなど、沿線住民からの苦情も多く出されるようになっていた。
明治二十二年六月二十九日、西梶元次郎を発起人総代として上等貸馬車、上等乗合馬車、貸馬および馬車製造を業とする、資本金八万円の東京馬車会社が設立された。東京馬車会社では馬車製造にはバネを除く部品は全て国産品を使った。黒塗り箱馬車、幌馬車など美麗かつ軽便をスローガンにして一頭引き馬車百五十台を製造し、半分を市街馬車とし、残りを貸馬車とした。貸馬車は、半日から一日は臨時の注文にも対応したが、事業所や官公庁とは、一か月や一か年の定期的、長期的な貸出契約を結んだ。
資性明敏の賢夫人
東京市芝区芝公園七号に事務所と自宅を構えていた吉田寅松の吉田組では自家用馬車があったのだろうか、それとも貸馬車を利用していたのだろうか。資性明敏で社交的の誉れ高い寅松の妻芳子は、常に洋装し、二頭立ての馬車で東京市内を颯爽と乗り回し、西郷従道、井上馨、板垣退助、農務省商務局長を勤め満州鉄道の初代社長に転じた高橋新吉などの屋敷に自由に出入りしていた。
芳子は、日本各地で吉田組が請負っている鉄道建設工事の現場監督のために留守がちな寅松に代わり、高位高官や各界名士達を知己として、屈託なく談笑しながら、寅松の事業のとりなしなどをして内助の功を発揮していた。寅松が事業に失敗し病に倒れ、世間から身を隠すような暮らしをしていた時期も、寅松は好子の支えがあって再起できたことも、衆目の知るところであった。好子は、吉田寅松をして優良土木業者、天下の大吉田組ならしめた陰の功労者と称されていた。
馬車鉄道から電気鉄道へ
明治二十九年四月九日以降、花見など春の行楽客の利用もあり、東京馬車鉄道は毎日二千円以上の収入があり、十二日の日曜日には乗客九万二千三百八十八人、収入二千三百四十九円と創立以来最高の収入を上げた。
品川馬車鉄道、千住馬車鉄道など東京市内各所に馬車鉄道の路線が広がっていった。
電気を動力とする電気鉄道は、一八七九年(明治十二)にドイツのシーメンス社が試験運転に成功し、一八八八年(明治二十一)年にアメリカのリッチモンドの市街鉄道が好成績を収めたことにより、欧米諸都市で急速に電気鉄道が普及していった。
日本では、明治二十二年に大倉喜八郎、藤岡市助などの電気鉄道会社と、立川勇次郎などの東京電車会社が東京市街に電気鉄道敷設の出願をしたが却下された。
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