終戦から79年となる今日8月15日。戦争を知る世代も少なくなる中、本紙は区内で鶴見空襲などを体験した矢向在住の山部泰久さん(91)にインタビューし、当時の様子などを語ってもらった。また、江ケ崎町の歴史資料室「史季の郷」では、9月末まで戦争展が開かれている。
3歳の頃に矢向に移住し、矢向小学校の一期生でもある山部さん。「戦争が激しくなるからと、まず兄が学徒出陣で徴兵された。私は1944年の8月から7か月間、縁のある山梨県の寺に縁故疎開をしていた」
中学入学のため疎開から戻った山部さんは、45年4月15日の鶴見空襲の時、矢向の自宅にいた(当時11歳)。「自宅でラジオを聞いていると突然空襲警報が鳴った。父が『今度はここかもしれない』と話し、急いで近くの防空壕に逃げ込んだ」。山部さんによると空襲が始まってすぐに新鶴見操車場から黒煙が上がり、現在の国道1号線方面からも爆撃音が聞こえてきたという。
「今の矢向駅のある矢向5、6丁目辺りに被害があった。他の地域は操車場の黒煙で空が隠れていたこともあってか私の自宅周辺に被害は無かった。近くに良忠寺、最願寺、日枝神社があるおかげだと口にする人も大勢いた」と振り返る。
駅は焼け、国道が火の海に
夜8時頃から始まった空襲は日が変わる頃まで続いた。当時は、防空壕など隠れる所が近くにない人は、国道1号線か鶴見操車場に分かれて避難していた。空襲が収まると、山部さんは矢向駅近くに住む友人の家が燃えていると聞き、他の友人と向かった。「駅は燃え尽き、半狂乱で『助けてくれ』と叫ぶ人で地獄のようだった」
山部さんが友人を探しに向かった国道1号線は、一面に火の海が広がる惨状だった。「死体を見た時あまりの多さに最初は何が落ちて燃えているのか分からず、布団かと思った。人間の脂が燃えて嫌な臭いが充満していて吐いてしまった」。焼けて身元が分からない死体や、焼夷弾による火災で酸欠になって絶命している人もいたという。
4月15日以降は、矢向に直接空襲があったのは終戦前の6、7月頃。現在の東部病院周辺にも爆弾が落ちた。そして山部さんは終戦の日を自宅で迎えた。「放送で敗戦を悟り、ガックリしたのをよく覚えている。アメリカ人に対して復讐心も当時はあった」と話す。
終戦後は道を耕し、近隣住民と協力してカボチャを作って飢えをしのいだ。「不味かったが生きるため口にした。戦争は無益な殺し合い。ずいぶん経ってからそう思うようになった」
山部さんは現在の日本で地域の関係性が希薄になってきていることを憂いている。「戦後も周りの人と助け合って生き延びてこられた。戦争の悲惨さを継ぐことも大切ですが、改めて助け合いの精神を大切にしてもらいたい」と思いを語った。
江ケ崎町の史季の郷で「戦争展」
終戦記念日に合わせ、江ケ崎町の新鶴見小学校そばの歴史資料室「史季の郷」で、9月末まで戦争展が開かれている。
期間中は地域住民から寄贈された鉄兜や海軍制服、防弾お守り、当時の新聞などを展示。同館理事の間口健一さんは「戦争を知り、平和について考える機会となれば。直接ご覧いただきたい」と話す。開館は火曜・木曜が午前10時から正午、土日は10時から4時まで。
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