「土木事業者・吉田寅松」54 鶴見の歴史よもやま話 鶴見出身・東洋のレセップス!? 文 鶴見歴史の会 齋藤美枝 ※文中敬称略
吉川兼次郎にコンクリート技法を教えた斎藤精一郎は、旗本作事奉行の次男として江戸に生まれた。徳川幕府崩壊後、二十五歳の春、家を出て十年あまり諸国遍歴したのち、東京・横浜間の鉄道工事がはじまった明治三年、明治政府の命を受け、鶴見川鉄道橋の架設工事にたずさわった。工事期間中、鉄道用地測量の立ち合いや用地内の家屋などの移転手続き、鉄道工事に従事する地元民への賃金の一時立替えなど、様々な役割を担っていた鶴見村の名主佐久間権蔵と親しく交流するようになった。齋藤は佐久間の紹介で、鶴見橋(現在の鶴見川橋)の袂に住んでいた勤倹で家庭環境も整った吉川兼次郎家に寄宿するようになった。
俳諧をたしなみ三申堂昧美の号をもつ斎藤精一郎に私淑した吉川兼次郎は、俳諧の指導を受け、当時として珍しい西洋漆喰(コンクリート)の技法も教わった。菅原道真や孔子の追 遠 碑、狐像や香炉などをつくって、コンクリート製法の技術を磨いていった。
終生独身をつらぬいた斎藤は、明治十九年十一月、五十二歳で病没するまで吉川家で過ごし、句会などをひらき鶴見村の人々とも親しく交流した。コンクリート製法の伝授や俳譜の指導だけでなく人格的な薫陶をうけた吉川兼次郎は、天王院の吉川家の墓地内に斎藤精一郎を埋葬し、その生涯を記録した「斎藤精一郎君の碑」も建てねんごろに供養した。大正三年三月、鶴見神社境内に建てられた「社殿再建記念献碑には精一郎と兼次郎の和歌も刻まれている。
稲も寝る実いりや民の高枕
昧美
年々に雪は積もれど深緑
宮居の松は幾世経ぬらむ
兼本
吉田寅松は、明治三年から始まった新橋・横浜間の鉄道建設工事では、多摩川から横浜駅(桜木町駅)までの工事を請け負った高島嘉右衛門の下請業者として初めて鉄道建設工事に従事した。寅松は、鶴見川鉄橋架橋工事を担当した鉄道技師斎藤から鉄道技術を学んでいたのかもしれない。
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