「土木事業者・吉田寅松」57 鶴見の歴史よもやま話 鶴見出身・東洋のレセップス!? 文 鶴見歴史の会 齋藤美枝 ※文中敬称略
舞鶴軍港敷地造成の難工事を成し遂げた寅松は、海軍元帥西郷従道との絆をより確かなものとした。
明治二十六年頃から三十二年に至るまで雨宮敬次郎や藤山雷太など三十数社から東京市街に電気鉄道敷設の特許認可をめぐる激しい対立がつづいていた。市民の利便よりも、会社の利益優先の計画に義憤を感じた寅松は、私財一万円を投じて公利公益、市民に利便する適正な設計案を作成し、沼津の別荘に西郷従道を訪ねて具申した。結果、明治三十三年、寅松の公利公益に資する設計案が採用され、東京馬車鉄道、東京市街鉄道、川崎電気鉄道の三社に敷設許可がおりた。
舞鶴軍港敷地造成の難事業と東京市内鉄道の公利公益を導いた寅松の高徳が評価され、前東京府知事の久我通久侯爵ほか在野の有志数千人から、寅松に金杯と表彰状が贈られた。
立身出世の大志を抱いて北寺尾の鶴田家から江戸に出た寅松は、明治維新前後の混乱期から薩摩藩の出入り商人となり、戊辰戦争では西郷隆盛に追従し、兵器弾薬兵糧調達を通じて西郷従道と持ちつ持たれつの関係を築いていた。従道が海軍大将として勝利を導いた日清戦争(明治二十七、八年)の軍資金として寅松は千円を献納した。
任侠大谷源次郎の仲裁
吉田寅松の吉田組は、高級幹部の内藤富士松、中山希賢、西川孝信、中山慶助、後藤伝五郎らの代人に現場を任しながら、各地でさまざま土木工事を請負っていた。
上野・仙台間の海岸線「常磐線」は明治二十七年に着工し、上野駅から土浦を経て、水戸、友部駅までを土浦線、水戸から平、中村を経て岩沼までを磐城線として工事がすすめられ、三十一年八月に開通した。
土浦線を三区に分け、鹿島組、橋本組、小川勝五郎、吉田組などが特命された。土浦駅近くの工事には、吉田組の下請けとして大宮源次郎も参加した。
大宮源次郎は、鶴田浩二出演の「関東やくざ者」の大谷清次郎のモデルになった任侠から土木請負業者になり、鉄道・港湾・製鋼所など数々の難工事を成し遂げてきた大親分。幕末に喜連川藩家老権頭の嫡子に生まれながら、お家騒動のため波乱の生涯を送り、晩年には息子と中山競馬場の創設に貢献した。
土浦線の工事は日清戦争の最中の明治二十七年十一月に着手した。二十二日に日本軍が旅順口を占領したというニュースが飛び込んだ。どこの工事現場でも、吉田組はことあるごとに豪勢な祝宴を繰りひろげていた。
「それ、戦勝祝賀だ」と、吉田組の連中は土浦第一流の料理屋日清楼に繰り出し、どんちゃん騒ぎの大宴会をはじめた。別室では、土地の大親分の松金一家や土浦仲買人と称する博徒の顔役たちが祝宴をはっていた。
その中の一人が何を間違えたか、吉田組の座敷に紛れ込んできた。酒の勢いで吉田組の連中に袋叩きにされてしまった。騒ぎを聞きつけて博徒連が「吉田組の奴ら、旅烏のくせに生意気だ!」と、なだれ込み大喧嘩となった。
急を聞き松金一家の子分たちが駆けつけ、吉田組の連中もダイナマイトを抱えて駆けつけた。警察官も駆けつけての大騒動となり、吉田組の二人が松金一家の者に霞ヶ浦に投げ込まれ、逆さ吊りにされた者もいて、大乱闘はおさまらない。
吉田組の代人が大宮源次郎の現場事務所に飛び込み、「何とか騒ぎをおさめてほしい」と助けを求めた。
「よろしい、承知しました」と、大宮源次郎は色あせた大宮組の印半纏に股引き、素足に草履履きで単身松金の家に行き、その日のうちにきれいさっぱり、すべてを丸くおさめてしまった。その扱いの見事さに、土浦仲買人取締りの中村半三郎は翌日、大宮の盃をもらって子分になったという。
土浦線は、二十九年十二月に竣工した。磐城線は、四区に分け、水戸、平、浪江、岩沼に事務所を置き、鹿島組、橋本組、盛陽社、吉田組などが特命で請負い、明治二十八年二月に起工し、三十一年八月に竣工した。
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