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鶴見区版 公開:2013年3月28日 エリアトップへ

郷土史の恩人黒川荘三翁 文・写真 鶴見歴史の会 齋藤 美枝

公開:2013年3月28日

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黒川荘三と生麦事件碑
黒川荘三と生麦事件碑

 鶴見の郷土史を語るとき、忘れてはいけない人物の一人に黒川荘三(くろかわしょうぞう)(号は鶴園(かくえん))がいる。

 黒川荘三は、弘化3年(1846)生まれで、明治5年(1872)から明治21年まで鶴見村の副戸長・戸長を勤め、明治22年から25年まで、明治27年から昭和5年(1930)まで42年間、鶴見神社の宮司を務め、大正2年から昭和5年まで寺谷の熊野神社の宮司も兼務した。

 黒川家は、旧東海道筋、現在のマルハチ文具店の辺りで薬屋「鶴居堂(かっきょどう)」を営み、咳の特効薬「苦楽丸」が街道名物となり、漆塗りの金看板を掲げて大繁昌。代々四郎左右衛門を名乗り、村役人も勤めていた。鶴園の祖父宗園は、鶴見村の水田を潤すために潅がい用のため池(成願寺の三ツ池)を造り寄附するなど、村人の生活向上に尽力した。

 屋号の鶴居堂については、文化10年(1813)1月15日、YOUテレビ制作部のビルの辺りにあった黒川家の自宅の庭に、丹頂鶴四羽が舞い降りてきたことに由来するという。

 黒川荘三は、生麦事件碑をはじめ、總持寺境内にある見返し坂碑や手枕坂碑、諏訪坂公園にある諏訪坂碑など、鶴見の坂ごとに手製の道標を建てた。また、鶴見の年中行事や史跡・名勝起源・生麦事件・田祭りなど、幕末から明治時代の鶴見の様子を書きとめた手記『千草』全八巻を残している。

 道標は、友人の吉川兼次郎(号は兼本)と二人で、当時はまだ珍しかった西洋漆喰、混疑土(こんぎど)と呼ばれたセメントで造り、坂の名称だけでなく、鶴見の名所旧跡と、鶴園の和歌と兼本の俳句も刻している。

 黒川荘三は、昭和11年に没し、天王院の墓地に埋葬された。戦後、子孫が関西に移り住み、遺骨も移されたが、黒川家が鶴見に貢献した功績の大なることから、黒川家類代の墓地・墓標はそのまま残されている。

 『千草 一』の冒頭には、安政五年(1858)7月8日に幕府が初めて外国奉行をおき、神奈川奉行に兼職させたことや、万延元年2月6日に幕府直轄領で代官支配だった神奈川領鶴見村・生麦村・西子安村・新宿村の五ヶ村の諸帳簿を神奈川奉行所に引き渡したことなどが書かれている。さらに「断髪」「懐中時計」「八角時計」「ランプ」「女生徒雨合羽」「蝙蝠傘」など、横浜開港によってもたらされた西洋の文物が紹介されている。
 

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