「国のため、家族のためが当たり前の時代だった」
鶴見で生まれ育った晝間松之助さん(93)は、1940年12月、18歳で志願兵として入隊。北の戦地・中国で活動した後、歩兵第220連隊本部で軍旗を守る旗護班長として、44年春、ニューギニア島周辺の南方戦線へ転進した。
前線の後退が始まっていたころ、転進前にそれまで撮った写真などを実家に送っていた。「今思えば、覚悟していたのかもしれない」
米軍の魚雷で撃沈
米軍の力は圧倒的だった。同年5月6日、乗船していた輸送船が、敵潜水艦2隻の攻撃を受けた。「昼間だったから、魚雷が見えたよ」。3発のうち2発が命中したが、ちょうど船の前後に当たり、沈むまでに2時間かかった。
「天皇陛下の名代だった軍旗は、何よりも優先された。それを守る任務に就いていたから」。別の船が轟沈する中、軍旗とともに小型ボートで退船。護衛艦に救助された。
任務支えに
十分な物資の補給もないまま、ニューギニア島西部ソロンに上陸したのが、約1カ月後。一個連隊約3千人。前線を死守するべく、ジャングルの中で陣地構築に取り組んだ。
「スコップと斧があるくらい。陣地といっても塹壕を掘るくらいしかできなかった」。上陸から4カ月、ほとんどを人力で進める中、兵員の体力は消耗。そこへさらにマラリアが襲った。生きるか死ぬか――まさに極限の状態。2千人が命を落とした。
「軍旗を守る――私は任務に支えられた」。晝間さんは振り返る。撃沈されたときも、ジャングルでの生活も、弱気は一度も起こらなかった。
主戦場が他に移った後も領地を守り続けた。「開墾してサツマイモを作った。体力が回復すると、マラリアも治まった」
未来を考えるとき
終戦は米軍機が撒いたチラシで知った。『日本は降伏した』。「正直ホッとした。最前線の兵隊は本当に大変だったと思う。我々もひどいところにいたから」
日本から迎えが来たのは、終戦の翌年だった。復員後は地域のためにと、民生委員や保護司として活動した。亡くした戦友たちに、帰って日本のために尽くせと言われた気がしていた。
戦後70年、転換期となりつつある現代。「これからの日本がどう変わるのか。一人ひとり責任をもって考えなくては」
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