「土木事業者・吉田寅松」53 鶴見の歴史よもやま話 鶴見出身・東洋のレセップス!? 文 鶴見歴史の会 齋藤美枝 ※文中敬称略
続・コンクリート製の見返し坂碑
コンクリート製の碑は長年の風雪にさらされて劣化したため、平成元年、当時大本山總持寺白字会会長を務めていた松沢福司さんが黒御影石で再建し、旧碑の残片は新碑のうしろに保存した。
新しい見返し坂碑の正面真ん中に「見返し坂」、右に「西 大池ヨリ獅子ヶ谷師岡ニ至ル」 左に「東 東海道鶴見駅を経テ海岸ニ至ル」と刻まれている。
黒川荘三と吉川兼次郎は、史跡や伝説を後世に伝えるため、当時としては珍しいコンクリートを用いて諏訪坂や手枕坂、見返し坂など、坂ごとの碑や秋田城介館跡などの碑をつくり、それぞれの碑に、地域の由来や名所旧跡と鶴園の短歌と兼本の俳句を刻んだ。
現在、二人が建てたコンクリート製の碑で完全な形でのこっているのは、嘉永七年にペリー艦隊の乗り組み宣教師が通ったことを伝える總持寺境内の「手枕坂」碑だけである。
鶴見の東福寺境内に仮寓し、鶴見の文化醸成にも尽力した日本画家で俳人、第一回横浜文化賞を受賞した飯田九一は、吉川兼次郎を「明治初期におけるコンクリート細工家の草分け」と評した。
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