1964(昭和39)年開催の前東京五輪の頃は、宮前区内も高度成長期で一気に開発が進んだ。区内の造成工事を担ったのは、全国からの出稼労働者だ。その中の一人、本木勝利さん(76)が当時の様子を収めた写真等を集めたスライドショーを、出身地の山形県内で今春上映した-。
当時、地方の農家の多くは現金を得るために、繁忙期を除いた11月から3月頃にかけて東京近郊へ出稼ぎにきていた。本木さんは山形から寝台列車で宮前へ。期間中寝泊りする飯場は、当時の馬絹郵便局から国道246号線を挟んだ向かいに位置し、全国から30人ほどが集まっていたという。簡素な寝食を共にし、東急田園都市線沿線の造成等に携わった。中には突然倒れ、有馬病院に運び込まれた仲間もいた。
本木さんは5年ほど出稼ぎをした後、山形県白鷹町で町会議員を10期務めた。2度目の東京五輪開催となった今年、古い写真が出てきたことをきっかけに、上映会を実施。撮りためた中から厳選した写真がスクリーンに映し出された。宮前だけでなく全国へと出稼ぎに出ていた人やその家庭を守っていた妻らが当時を懐かしみ、他での開催要請があるなど反響が大きかったという。出稼ぎに来ていた当時の宮前は「広大な原野が広がっていた」と振り返る本木さん。「今の住宅やマンションの建ち並ぶ姿に驚いた。今はコロナの影響もあるが、いずれ何かの機会があれば再び足を運んでみたい」と思いを馳せる。
地形をも変えた過酷な作業
スライドショーの写真などを手に、古くからこの地に住む馬絹町会長の目代鉄男さん(69)や馬絹神社氏子会会長の田邉英夫(88)さんに話を聞いた。2人は、ぬかるむ中約200キロのコンクリートの柱を並べて人工の川を通したのは、矢上川ではないかと推測=写真右下。「昔は馬絹神社の山が近隣で一番高かったが、宮崎台駅のある山に抜かされた」と回顧する。区内では66(昭和41)年に田園都市線が運行を開始し、69(昭和44)年に東名高速が開通するなど、交通網の発展に伴い、宮前も急速に発展した。目代さんは「昔は246が宮崎小の横を通り、馬絹商店街は、それは賑やかだった」と当時を懐かしんだ。
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