77年前の4月15日、川崎市は米軍のB29爆撃機 による焼夷弾で無差別爆撃を受けた。当時17歳だった元参議院議員の斎藤文夫さん(93・川崎区)は「川崎大空襲」を克明に記憶する。ロシアによるウクライナ侵攻に思いを重ねながら当時を振り返った。
「いつの日か川崎も空襲にあうだろう」。川崎大空襲の1カ月前の3月10日、東京大空襲で自宅の2階から、東京が焼ける光景を目にした斎藤さん。焼けかすが身の回りに降りそそぎ、そんな思いを感じながら日々を過ごしていた。
4月15日は空襲警報と同時に、焼夷弾が落ち、六郷橋付近から燃えはじめ、東3丁目(現在の本町付近)は火の海となった。斎藤さんはこの日、冬物から春物へと衣替えし、かすりの着物を着てくつろいでいた。斎藤さんは刀を一本腰に差し、父親、母親の親子3人で身の回りの物を持って自宅を飛び出した。
自宅裏の宗三寺は、六郷や堀川町から避難した人がひしめき合い、押し寄せた人波で「人が持ち上がった」と斎藤さんは語る。川崎駅前広場は、隣接する東芝の工場を目がけて焼夷弾が降り注いだ。焼夷弾は、ひもが取り付けられ、それが上空で燃えて落ちてくる。焼夷弾がぶつかって跳ねる音は、今も斎藤さんの耳から離れない。
清水池(現富士見公園)を目指し、貝塚方面から迫る煙をかき分けながら新川通を進むと、超低空飛行をするB29が頭の上をかすめた。飛行士の顔が間近に迫り、斎藤さんは「このやろう」との思いを抱いた。
池にたどり着き、水を見ると、精神的に落ち着いたという。親子3人で手をつないでほとりに座っていると、焼夷弾による爆風で旋風が起き、池の水とともに巻き上げられ、その後、池の中に落ちた。逃げる際、母親が用意してくれた新しい靴はボロボロになっていた。その後、近くの陸上競技場へ避難。大勢の市民とともに空襲が終わるのを待った。
川崎駅周辺の建物は多くが焼失した一方、宮前小学校、電話局、市役所は焼け残った。斎藤さん宅は焼失したが、焼け残った大きな金庫の中からは家族写真が出てきた。庭の防空壕の中からは祖父の形見である秋田小判、庭の土の中からは祖父の代から神棚にまつっていた一対の稲荷像などが出てきた。斎藤さんは稲荷像を今も自宅の神棚に大切にまつる。
幸区の親せき宅に向かった斎藤さんは、機銃掃射を受けて倒れた人の山も目にしたという。
川崎大空襲では約1千人が亡くなった。「無差別攻撃をされた俺たちは、一体何だったのだろう」と米軍への怒りがあった。
ロシアによるウクライナ侵攻の映像がテレビで流れ「戦争は国民が最大の悲劇を被る。命を失い家、財産を失う。日本は永久平和のための努力をしなければならない」と力を込めた。
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