高津物語 連載第八五三回 「芭蕉代掻の句碑」史料1
飯田九一編の『神奈川文庫』(第三輯)『川崎古今俳句集』(昭和二十六年七月二十五日発行)から高津郷土資料を掲載しておきたい。
「溝の口駅で下車して西方の田鶴見が岡(俗の七面山と云う)迄は十二三分で達します。此の丘の頂上、下作延の古松のもとにこの碑は立つて居り、而も碑面は玉川の方向に据え付けられてあります。
芭蕉翁
世を旅に
代かく小田の
ゆ起もと里
この碑は蒼みのある伊予石で丈四尺九寸根巾二尺五寸面取りの台石が付いて居ります。碑面の句中「かく小田の」の辺りは句を知らぬと一寸判読に苦しむ程に風蝕されて居ります。
碑影には
丁豈文政十二年己丑四月十二日
玉川 老人亭宝水建之
と云う風に配されて居ります。
老人亭宝水に就ては川崎俳壇史に於て既記致しましたのでここでは成る可く当碑に就てのみを記しますが、実は当碑は始めから七面山の頂上に建立したものでは無く、最初は現在の立正女子学院(鈴木注―現高津図書館)の隣、二子寄りの道端に建てられてあったもので而も碑陰には文政十三年十月十二日の建立と記されてありますが、実際は文政十三年十月十六日に建碑式を挙行した事が宝水自身の記載に拠る資料によつて判明致し、同時に当句碑面の「世を旅に代かく小田の行戻り」の句を選んだ意味も彼の自筆の資料によって窺う事を得ました。その全文を茲に記します。
祖翁は生涯旅にわたらせ玉ひ扨こそ代かく小田の尊吟も風流自然の金言たるべし其余風をしとふ輩みな旅を守としてゆき道筋を学ぶ予は東海道の一すじもしらずして古希に至りぬれば風雅に覚束なきの最上たるべし。
かくてこたび、翁の碑を建立して旅せぬ罪を懺悔し皐月のかがみにいにしへの俤をうつし、尊吟に脇を添る事こそ恐るらくも冥加にあまれる幸也ける 宝水
と彼は綴って居ります。
(著者注―松尾芭蕉宝水碑は現在、宗隆寺山門を入って、本堂左側にある)
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