高津物語 連載第九一六回 「溝口の洪水」
高津区文化協会が開催した「高津区文化祭」のセミナー「いのちの水の歴史と文化」でのシンポジウムで、「二つの暴れ川―昭和初期まで洪水のまちだった溝口」で講師を務めた。
今回も講師を務めた御褒美のように、大きな収穫があった。
それは、青陵岩精が描いた『武陽玉川八景之図』に描かれた「津田山」の姿である。岩精は「津田山」を現在の様に、JR南武線の通る津田山を描いていない。
岩精は「津田山」を今の様に真中をJRが通る様には描いていない。驚くなかれ「津田山」は一つの山として、描かれている。
江戸時代後期に描かれた「津田山」は、一つの山であって、随分大きな山であった。この山が二つに割れた原因となったのは、明治四三年(一九一〇)八月の多摩川の大洪水である。
この洪水で「稲田村中野島地内の堤防が決壊し、同村から大師河原村に至る市域の村落の田畑数百町歩が水害を受け、六郷橋が流失した」と川崎市史にある。
この時の写真が残されているが、今回改めて平瀬川の氾濫写真を観て驚いた。
「平瀬川」の氾濫の写真は、津田山際まで水が満ち、電線が水上に倒れながら曲って立っているのが見え、一面の水びたしなのだ。
これは、久地の堰をぶち破り、津田山をまっ二つに裂きながら濁流が流れ、津田山の裾から平瀬川迄、水びたしの図なのだ。二子橋の高さが、この時の水位を示しているから、高津の町はほぼ水没したと思われる。
新聞は「関東一面泥の海、稀有の洪水」として東海道をはじめ電車の不通を報じ、浸水家屋の幾千を知らず、と報道、混乱ぶりが見える。
この事態に岡本一平は、新聞で多摩川洪水を知り、徒歩で泥水を渡り歩き、朝出発して日暮れにかの子の実家大貫家にたどり着いた。
自分の子を宿している女への男の情愛のあらわれだ、と『かの子繚乱』は書く。一平が正式に結婚申込みをしたのは、この時だった。
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