高津物語 連載第九三二回 「まちの歴史」
この町に生まれて八十年になるというのに、まだまだ、この町が判らない。
不思議な話である。
不思議の第一歩は、「武陽玉川八景之図」から始った。
寛政三年(一七九一)に青陵岩精によって描かれた江戸馬喰町二丁目、森屋治兵衛が版元、溝口村丸屋七右衛門が販売元となって、大山街道を行き来する人々のために、販売された。
この絵図の不思議は、左から「大山」「富士山」「身延山」「高尾山」「三峰山」「御岳山」「日光中善寺」「筑波山」を描いているのに「赤城山」が描かれていない不思議さである。
真ん中に描かれた「七面山」は、真ん中が割れてなくて、一つの山である。
現在の様に、真ん中を南武線が通ったり、鹿島田・菅線の道路が通っていない。
「津田山」と呼ばれている正式名称「七面山」は、青陵岩精が描いた様に、七つの「尾根」から出来上がっていた様だ。
すなわち【1】「溝口宗隆寺・溝口神社―溝口赤城神社尾根」【2】「久地赤城神社浄元寺」【3】「下作延赤城神社」【4】「上作延延命寺赤城神社」【5】青陵岩精が描いている七面山頂上にあったと思われる「八幡神社」、読み取れない「○○○仙元」(津田山決壊の際に、濁流に押し流された)山々、それと「久本赤城神社」の七つ、すなわち「七面山」となる計算である。私たち高津幼稚園の第一期生(昭和十七年)にはなかった「園歌」が島田堯存園長によって作詞作曲されている。
「高津幼稚園園歌」
緑の松の七面山
小鳥も楽しく歌ってる
僕も 私も あの山の
姿のように美しい
明るい子供になりましょう
あるいは一部間違いがあるかもしれないが、凡そこの様な歌詞だったと思われる。
今、溝口の町は高層化が激しく、七面山の緑が貴重なものとなり、この緑によって、救われている。
この間、七面山に沈む赤く染まる夕日のあまりの美しさに、思わず両手を合わせ、合掌してしまった。
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