高津物語 連載第九八八回 「オリンピック選手村」
昭和十五年に日本が立候補した「オリンピック競技大会」は、評決の結果、フィンランドを大差で破り、東京に決定した。
オリンピックが初めてアジアでの開催が決定した大会で、今日なお「幻の東京オリンピック」と呼ばれている。この大会のメイン・スタジアムは、東京都世田谷区駒沢にある「駒沢オリンピック競技場」に決定していて、水泳競技も二子玉川遊園地内の「玉川プール」が予定されていた。
オープニング・セレモニーは「ターザン俳優」のジョニー・ワイズミューラーが招かれて初泳ぎを飾った。
併せて「オリンピック選手村」は、川崎市高津区下作延の津田山山頂にあった「厚生省青年修練道場」を充てることと、野津先生が決め、正式決定していた。
この道場は、野津譲先生が厚生省現職時代に、企画して建築させたもので、極めて大きな建物であった様だ。当時七才の私は実物を見ていないので、想像でいうより仕方ないからだ。
この「厚生省青年修練道場」は「戦後の代々木オリンピック大会前、東京で戦前、オリンピックが開催される予定をしてました。その問題のオリンピック選手村は津田山を予定してあった。そこは野津先生、東京都、厚生省が打ち合わせ済みで、半ば用意された候補地でした。戦争の為、中止になったので、野津先生が中心となって、国民体育道場として使われてきました。戦後、其の侭になった、いわれのある場所です。」(『野津譲の世界』学芸書林所蔵「植木信子手記『産報(産業報因)時代』」とある。
近衛文麿首相が危機を乗り切る為「大政翼賛会」を発足、産業報国会と名を変えて、日本翼賛壮年団の発足となり、野津先生も立場上理事となられた。「日本国民の健康生活の指導に取り組みたいという強い信念と熱意があったからだ」という。野津先生は戦後も、「宮ノ下」バス停付近津田山麓で、小児科医を開業して地域医療の増進に励まれていた、偉い人である。
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