連載第一〇〇六回 高津物語 「伝染病の恐怖と西洋医学の受容」
十八世紀後半から十九世紀初頭の日本は、異常気象に落ち込んだ時期だった。
世界気候の小氷河期、寒気のピーク期に当たり、その影響が日本列島に及んだと考えられている(小学館『体系日本の歴史』11―近代の予兆―青木美智男著)。
多摩川河畔に位置する川崎は文政年間、度重なる多摩川の増水や氾濫で、床上浸水の被害が慢性化した。
これにより文久二年(一八六二)六〜八月の夏季、川崎宿でコレラや麻疹が流行し、住民を伝染病の恐怖に陥れた(『川崎市史』)。
「本道」と言われる長崎からたまたま、上京してきた久本岡家医院の『岡家一代記』には、「岡家第一世は長門国小縣三郎の一族にして享保七年(一七二二)長崎から出て来て、諸国万遊中、たまたま久本の地で治療したのが縁となり、本姓を名乗るのを憚り「岡」と改称、久本で医療院『岡栄壽院』を開設して三百年間余、岡家菩提寺―久本「大蓮寺」の岡家初代墓碑銘に「生国長崎緒方氏」とあり(俗名は岡東栄)、この人が久本「岡永寿堂」開店時の元祖であった。十六世紀半ば、岡家二代目は開顕同栄と云い三世は岡現栄である。この人の代に、自宅全焼を体験している故か、三十五才で若死にしている。四世は大徳道栄。身体肥大にして体重二十四貫、常に角力(相撲)を好めり」という。「産科術を妙に得て、十数里四方に迎えられ、広く久本の道栄と知られたるは、当代を以て、元祖として可なり」と。「往診は駕籠又は馬等にして、寸時も安座し居るのは閑暇なかりしと聞く」と言われた。
頑健な岡道栄が、馬に乗り安政二年(一八五五)九月長尾鈴木藤助家に往診している。武州橘樹郡長尾村『鈴木藤助日記』第一巻文政二年九月十九日に「此日より藤助痘瘡発り夜に早く引籠り申候」以降、「久本(岡)道栄見舞・夜に入久本岡氏見舞・岡道栄見舞・岡氏来見舞也」、等頻繁に岡道栄氏が巨体を利して、馬に乗って長尾の鈴木藤助氏宅を訪問看護しているのが判る。溝口太田医院が往診したり、鈴木家が片町太田先生に薬を取りに行ったり当時の様子が判る。
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