連載第一〇二二回 高津物語 「多摩川の洪水対策」
歴史上最大の洪水は明治三九年と明治四三年の大洪水とされている。この洪水で高津町は濁流の中に沈み壊滅的な打撃を蒙った。中野島や登戸の堤防が決壊、稲田、生田、高津の地域が浸水、丸子、平間では大氾濫、御幸村の堤防が一〇〇mにわたって崩れたために流域沿いのほとんどの地域が浸水被害を受けた。
こんな訳で多摩川堤防の建設が急務となり、急遽大正八年六月から内務省は多摩川河口から久地に至る多摩川右岸改修工事のため幸区小向に改良工事事務所を設け大正九年度から工事に着手した。何しろ一五八九年(天正一七年)から一八五九年(安政六年)までに多摩川の洪水は六二回に及び、4年に1回以上は洪水の起こっていた計算になる。
ともあれ明治後半で多摩川最大の洪水を経験した頃、玉川電車は三軒茶屋と二子玉川間が全通して、多くの人を多摩川に運んだ。ここで多摩川への関心は最大となり、遠足は多摩川が常識となった。大正四年、多摩川泊水期成同盟会が組織されたが、大正八年多摩川砂利鉄道ができ、翌年一月二九日に正式に免許が下りて、営業を始めた。こうして多摩川は洪水と砂利、鮎漁、観光と多方面での利用が集中することとなった。
そこに大正一〇年、帝国陸軍南関東陸軍大演習が行われる舞台が「二子渡し」周辺と指定され、大正天皇御名代として皇太子の昭和天皇が来臨されることになった。多摩川渡河作戦の展開ということで、仮橋が三つ設けられ、盛大に行われた。演習が終わった後、高津町の林喜楽氏が「仮橋」を払い下げしてくれるように文書で正式に願い出た。
しかし、軍部は二子橋架橋を知っていたようでこの願いを無視し、大正一四年七月に「二子橋」が架橋された。長さは四四〇・〇一六m、橋脚は二十三基と異常に多いのが特徴。
新二子橋も昭和五三年三月に完成。長さ五七七・九m、橋脚は八基である。
この後、東京目黒通りを抜けて、多摩川を渡る計画もあるがこれは無理な話。多摩川の架橋については、先人も大変な苦労を重ねた。歴史の重みを感じる。
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