連載第一〇三三回 「高津町の近代化」 高津物語
建設省関東地方建設局京浜工事務所によれば、一級河川多摩川改修事業の経過は、大正七年(一九一八)原敬内閣の時に、多摩川河口から二子橋先、久地までを直轄施工区間として始まった。
次いで昭和七年(一九三二)から二子橋から日野橋間の多摩川上流改修工事が着手されている。
また、第一期工事の多摩川河口から二子橋までの多摩川維持工事が昭和九年(一九三四)に着手された。
翌昭和十年(一九三五)には、砂利乱掘防止の意を含めて、東京都大田区六郷と川崎市小向にゴルフ場が、中原の丸子地先にはオリンピア球場が造られた。
さらに、中学校や専門学校の運動場や農場が出現し、高水敷(多摩川河岸敷内の高地面)の利用は、東京側一一〇平米、神奈川県側一〇八平米となった。
事実には、太平洋戦争の始まった昭和一六年になって、戦争の激化と共に、高水敷の運動場は、次々と農耕地に姿を変えていったことと関連する。
いずれにしろ、高津区並びに多摩川史の中で、重要なことは、明治四〇年と四三年の二回の大洪水、その対応策として造成された多摩川土壌の構築であった。
これにより、玉川電車の溝ノ口乗り入れが実現し、電灯が引かれて、高津町の近代化が実現したとみる。
不慮の災害が歴史的近代化を推し進める典型的なモデルの一つと考えるが、多摩川大洪水を扱った文献が瀬戸内晴美の『かの子繚乱』のみというのは、寂しすぎると思われる。
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