戦後フィリピンから引き揚げ、川崎市の飲食業振興などに貢献した 丹野 雅子さん 中野島在住 80歳
心豊かに、強く生きる
○…終戦後、フィリピンのミンダナオ島から日本に引き揚げて72年。宿河原の川崎市緑化センターで生まれ故郷の花「ヒスイカズラ」が今年3月に初めて開花したと知り、「あまりの驚きに身震いした」。藤のように垂れ下がるカニの爪を大きく曲げたようなブルーの花。フィリピンでは祖父が植物果樹園を営み、ヒスイカズラがたくさん咲いていたという。「大勢が見に来る自慢の花だった。川崎市で、市民の平和の証として市の花にしてほしい」
○…1945年、米軍の攻撃開始と同時に一家の逃避行が始まった。熱帯特有のジメジメした熱い空気、道なき道を進んだ。乳幼児の弟妹をジャングルに残し、両親とともに食料などをリレーして運ぶ。妹らをなだめると、「母は『8歳のお母さん』と微笑んでくれた」。父は終戦を待たずに、穏やかに天国へ旅立った。9月初旬、米軍に収容され、10月には日本へ帰国。その後、家で戦争の話をすることはなかった。終戦70年の節目に、ようやく関連の本を読みあさり、記憶を紐解いた。「これからは伝えたい」と少しずつ筆をとる。
○…帰国後は福島県で育ち、日東紡績や都内のデパートに勤務。結婚を機に川崎へ。子育ての傍ら、バーに勤めたことを皮切りに40年飲食業に携わることに。多摩区役所付近で25年店を構え、区飲食業環境衛生同業組合婦人部長や区食品衛生協会理事などを歴任。市技能職団体では若手育成に貢献した。「出会いに恵まれた。出会った人たちは私の千手観音として生きている」
○…4年前からテレビもエアコンもない生活。「この夏は暑くて、スコールも降って嬉しくてたまらない」と幼少期を思い出す。野草料理は40年のベテラン、毎日のストレッチは20年。人間らしく謙虚に、自由な暮らしを求める。「人生は、いかに心豊かに強く生きるか。今が一番幸福。健康に、あと20年は頑張ろう」。常に喜びながら、楽しみながら、したたかに生きる。
|
|
|
|
|
|
11月22日