川崎市登戸国民学校、現在の登戸小の校舎前で1944(昭和19)年春ごろ撮影されたという一枚の集合写真。学徒動員で登戸研究所勤務を命じられた約40人の学級に、登戸在住の会津友伺さん(89)はいた。「皆、ゲートルを自分で足に巻いたんだ。兵隊と同じように仕事のとき足を守るため」と回顧する。
配属は10棟以上ある建物の隅にあった鍛造部。手りゅう弾のような鋳物を作る作業の補助だ。約50センチ四方の木の箱に砂を叩いて詰め、中央に木製の球を入れて固める。日光で3週間ほど干したら球を外し、箱を2つ合わせて施錠。あとは職員が溶かした鉄を流し込み、箱を蹴飛ばして鉄の球を取り出すという工程だ。「職員は手りゅう弾とは一言も言わなかった。面倒な作業だったけれども、言われたとおり毎日やるしかなかった」。会津さんは翌年春に卒業し、そのまま研究所に当時最年少で採用。同級生で同じ境遇は5、6人だったと推測する。
ある日、30機ほどの米爆撃機B29が低空飛行で迫ってきた。慌てて職員と防空壕に逃げたが、空襲せず通り過ぎたことが記憶に残る。「登戸研究所は軍事施設だが、大したものは造ってないと米軍は知ってたんだ」。研究所で働いたのは約1年半。出張を経て終戦前日に帰宅した。「研究所に国の大事なお金を使ってしまい、本当に申し訳ない」
戦争は「始めなければよかった。もっと早くやめさせるべきだった」と会津さん。戦後75年を迎え「大勢が亡くなった悲惨な戦争の事実を、現代に知らせてあげないといけない」と力を込めた。
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