本紙3月12日号の紙面でお届けした、駒澤大学陸上競技部・大八木弘明監督(62)と、元多摩区長の川崎市陸上競技協会・皆川敏明理事長(71)との対談企画。Web限定記事では、大八木監督が「原点」と語る、川崎市での6年間を振り返った二人の会話の全容を紹介する。
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皆川敏明理事長(以下、皆川)「大八木さんと会うのは13年前の箱根駅伝以来だね。たまたま大八木さんの運営管理車に乗せてもらってさ、9区で駒澤大学が早稲田大学を抜いたのよ。僕は早稲田大学出身だから複雑な気持ちだったわけ(笑)。でも、絶対抜かれるだろうとは思っていたから。僕も周りの人の計らいでフィニッシュを見させてもらえて」
大八木弘明監督(以下、大八木)「そうでしたね。それ以来、なかなか勝てなくて」
皆川「最近は駒澤大学は予選会に出たこともあったし、順位的にも厳しかったので今回はどうなるかなと思って見ていた。立ち上がりは良いわけではなかったけど、前みたいに極端に区間順位が悪いということもなく、往路ではうまくつないでいったからこれはいけるかもと思って。でも復路では正直に言って、9区の鶴見中継所の時点で3分19秒も離れていたから厳しいかなと。フィニッシュまでは見ずに外出して、帰りの電車でスマホを開いたら、『駒澤大学 逆転優勝』とあったから、もうびっくり。帰って、録画と『もうひとつの箱根駅伝』(日本テレビ)をしっかり見させてもらいました」
大八木「3分19秒離れていたので、創価大学にそのまま逃げ切られてしまうなと、(総合)2位を覚悟していました。だから、もう思いっきり走ってくれればいいやと、(10区の石川拓慎選手には)区間賞を狙いにいくように言いました。そうしたら、創価大学のペースが落ちてきて、ラスト10キロぐらいで、もしかしたらもしかするなと思いましたね。ラスト3キロのときには勝てたなという感じがして。やはり、諦めない気持ちが選手たちにもあったので、その気持ちが良い方向に向かったのかなと感じました」
22歳でつかんだチャンス 「働きながら学校にいけるかもしれない」
皆川「川崎市にいたのは、35〜40年ぐらい前だっけ?」
大八木「22歳で市役所に入庁したのでちょうど40年前ですね。私はやはり、箱根駅伝を走りたかったんですよ。でも、高校時代に疲労骨折をして、家庭の事情もあって諦めました。それで、卒業後は小森印刷(現・小森コーポレーション)に就職して、実業団で鍛えていたんです。そうしたら、川崎市役所陸上競技協会の理事長だった芳賀学人先生(当時の川崎市立今井中校長)に声をかけていただいて。川崎市役所で働きながら、大学の夜間部に行けるかもしれない。こんなチャンスは二度とないと思ってお受けしました」
皆川「芳賀先生から、『皆川君、大八木っていうものすごいのが来るよ』って言われてね。実際、本当に強かったよね。風が吹こうが、アップダウンがあろうが、雨が降ろうが、暑かろうが、寒かろうが、そんなことは口に出さずに、しっかり走るたくましい選手。今の子たちはスピード競争だけど、大八木さんはとにかく強かった。大学に入ったのは2年後だっけ?」
大八木「そうですね。駒澤大学はバイクで20分の距離だったので通えるなと、24歳で経済学部の夜間部に入学して箱根駅伝を目指しました。28歳で卒業するまで、幸区にあった市役所の独身寮に住んでいましたね。当時は勤労学生として16時半に上がらせてもらって、1時間ぐらい練習。その後、バイクで20分かけて学校に通って、21時半まで授業を受けて。丸子橋を渡って帰っていたので、途中にある新丸子の中華料理屋さんで晩ご飯を食べるのが日課でした。当時は貧血で悩んでいたから、2日に一度はレバニラでしたね。当時はとにかく毎日時間との戦いだったけど、走る時間だけはきちんと確保していました」
勤務先の川崎市立西丸子小学校は「もっとも練習環境がよかった」
皆川「大八木さんが(用務員として)働いていた西丸子小学校(中原区)は、もっとも練習環境がいいところだったね」
大八木「本当に一番いいところでした。実業団のつながりで知り合いだった東急陸上部の監督が、学校の隣のグラウンドを使わせてくれて。昼休みや、仕事が終わって大学に行くまでの1時間ぐらい練習させてもらっていました。私は働いていたので、他の学生と合流するのは土曜日と、合宿に顔を出すぐらい。実業団で作り上げた経験があったので、自分で練習メニューを立てて試合に臨んでいました。自分の中で常に計画を立てて、それを実行してきたという経験があるから、今の自分があると思っています。3年生からは、駒澤大学陸上競技部のメニューも私が立てていましたよ。皆より年上で、エースで、経験もあるから。それで初めて駒澤大学が箱根駅伝で4位になりました。卒業してヤクルトに入ってからも、私がメニューを作って送っていたので、3年生のときから一度も途切れず私がメニューを立てていることになります」
皆川「市役所陸上競技部もみんな職場がばらばらだから、練習は各自だったよね。そろって練習するのは夏に箱根でやっていた合宿のときぐらい。初日は、みんなでそろって走るのが恒例だったけど、そのときも大八木さんが速くてびっくりしたな」
川崎市代表、神奈川県代表として数々の駅伝大会に出場
皆川「大八木さんは市役所陸上競技部に入ってくれて、職場対抗の駅伝大会や郡市対抗駅伝(現・市町村大綱「かながわ駅伝」競争大会)と、川崎市や神奈川県の代表としてもいろんな大会に出てくれたよね」
大八木「郡市対抗駅伝は優勝しましたね」
皆川「そうそう、大八木さんいるときに2回ぐらい優勝したね」
大八木「郡市対抗駅伝は、お世話になった芳賀先生が(神奈川県代表の)監督だったので、恩返ししようと思って頑張りました。区間新記録も作っていましたよ」
皆川「覚えてる、すごい強烈だったもん。今はコースが変わったけど、当時は上り坂がものすごい多くて。通常は1キロ3分で走るけど、上りの場合はふつう3分ではいけない。でも大八木さんは平均3分ペースでいっちゃった。ぶっちぎりの区間賞。本当にすごかった。その頃はもう駒澤大学に入学していたよね」
大八木「大学に入ってからは大学の選手登録になったので、市役所陸上競技部ではみんなのお手伝い(助っ人)として交ぜてもらっていましたね。郡市対抗駅伝は市町村対抗なので、入学してからも川崎市代表として出ることができていました」
皆川「あの頃の神奈川県はまだ実業団がたくさんあって、結構レベルが高かったよね」
大八木「高かったですね。NECとか日産とか。厚木市のように力を入れている自治体もありましたし」
皆川「東日本縦断駅伝(青東駅伝)も神奈川県代表として出て、優勝したよね?市役所陸上競技部のみんなで、『やった!大八木がやった!』って喜んだよ」
大八木「出ましたね。スタートが青森県の八戸で、ゴールが東京。青東駅伝は読売新聞社が主催していたから、区間賞を獲ると読売新聞の紙面に出るんですよね。その記事を(市役所陸上競技部や勤務先の)みんなが見て、喜んでいただいていました」
めいっぱいの努力で叶えた3度の箱根駅伝
大八木「川崎市での6年間は、大学の授業と仕事と、箱根駅伝を目指していくのとで、めいっぱいでした。中学を卒業したときから箱根駅伝を夢にしていたけど、高校で右足を疲労骨折して3年間うまくいかず、大学も一度は諦めて。でも走るのが好きだったから未練があり、高校の恩師が紹介してくれた小森の実業団で復活しました。最後まで諦めなかったのが正解だったなと思いますね」
皆川「夢が実現したわけだもんね。大八木さんが1年生のとき、5区で区間賞を獲ったときはみんなで喜んだよ。やっぱり大八木さんは違うなって。でも1位じゃないからテレビには映らなくて、情報として見た。たしか宿舎に電話したね。忙しいだろうから手短に。2年、3年はいわゆる『花の2区』を走ったよね」
大八木「当時は貧血で全然走れなくて、2年での箱根駅伝は5位でした。鉄分を採らないといけないなと思って食生活を改善して、3年で区間賞を獲った。それがさっきのレバニラです」
※箱根駅伝は当時、年齢制限があったため4年生時は出場資格がなかった
六郷橋で思い出す懐かしい顔「大八木さんは皆に愛されていた」
大八木「六郷橋を渡って川崎市に入るときには、西丸子小でものすごくお世話になった先生を思い出します。近くに、その先生のご自宅があるんですよ。まだ自分が若くて給料も安かったので、しょっちゅうその先生に、ご自宅や武蔵小杉駅あたりで晩ご飯をごちそうになっていました。大学入試を受けるときも、英語が分からなくてその先生に教えていただいた。入学したときもとても喜んでくれました」
皆川「大八木さんは、西丸子小の先生からも子どもからも愛されていたんだよ。子どもたち、鼻高々だったんじゃないかな。市役所陸上競技部のみんながそうだったもん」
大八木「川崎市での6年間は、本当にいい勉強をさせてもらったと思っています。川崎市役所で勤めた6年間がなかったら、駒澤大学に来ることはなかった。大学を出たら指導者になろうとも考えていたので、学校の先生たちの児童への接し方も脇で見させてもらっていました。今ここ(駒澤大学陸上競技部)で自分の子ども(部員)たちに教える上でもプラスになっていると思います」
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