1941年に川崎市都市計画緑地第1号となった「生田緑地」は今年、80周年を迎えた。多彩な文化施設と共に、緑豊かな自然が残る。一方、その始まりは戦時下、首都防衛のための「防空緑地帯」として市が強制収用したことと重なる――。過去に多摩区全体の戦争遺跡調査にも取り組んだ、稲田郷土史会の会長・鶴見邦男さん(74)=長尾在住=と副会長・森田忠正さん(76)=登戸在住=に話を聞いた。
地形の特性生かし
「米軍の空襲を避けるため、施設や機械を隠す必要があった。平地では爆撃でやられてしまう。緑の多い丘の中で防ごうとした」と鶴見さん。アジア・太平洋戦争前後の1941年3月から44年にかけて、市は軍の後押しで生田緑地の広大な山林や農地を地権者、農民から強制的に収用。防空緑地帯とされ、探照灯基地や地下壕等の施設が集まる地となった。
多摩丘陵の地形を利用して区内には数多くの防空壕や地下壕がつくられたが、このような経緯もあり特に生田緑地周辺に集中。現在、ほとんどは危険防止のため入口がふさがれ、立ち入ることはできない。稲田郷土史会では、国土交通省の「特殊地下壕実態調査」と、神奈川県立公文書館所蔵の「特殊物件受払台帳」を軸に調査し、機関誌「あゆたか第51号」にまとめている。
工場疎開のため268メートル掘削
避難用の小さな防空壕から軍の資材保管の地下壕まで多様な形がある中、生田緑地周辺で特に大規模な地下壕は東口駐車場の奥。遊歩道の右側斜面に3カ所の地下壕入口がある。総延長は約268メートル、1944年から45年にかけて東芝が掘削した疎開工場だ。
「登戸研究所保存の会」事務局長として、5年に一度の市の調査に立ち会ったことがある森田さんは「真ん中の入口は崩壊し、左右はふたがしてあり普段は見ることができない。高さは3メートル、幅4メートル。戦後は子どもたちが遊んでいた」と説明する。軍需工場に対して出された工場分散疎開命令を受けてつくられたもので、実際に機械が運び込まれたというが、工場使用前に終戦。鶴見さんは「東芝の工場は久地の方にもあり、崖に横穴が掘られた。工場としてはほとんど使われなかったが、機械自体は空襲を免れ、戦後に使用できた」と語る。
生田緑地の北端、飯室山の北斜面に位置する「長者穴横穴古墳群」の周辺にも、一部古墳の穴と混在する形で多くの防空壕が掘られていた。かつて西側にあった登戸稲田病院の付近には、陸軍登戸研究所職員の営団住宅があり、空襲時にこの防空壕に逃げ込んだという。今も道路沿いの斜面に、板でふさがれた穴を確認することができる。
戦時の記憶、承継安立寺裏の地下壕
生田緑地にほど近い安立寺(東生田1丁目)の裏山も、多くの地下壕があった場所の一つ。裏山へ続く道には「この先のお寺の山には戦争中に掘った深い穴がたくさんあります」と、立ち入り禁止の看板が掲げられている。本堂の横にも鉄の扉を付けた穴がある。現住職によると「今は扉を開けてすぐのところで穴はふさがれている」といい、「岩盤なので、当時掘るのは相当大変だったのでは」と推測する。東生田では近隣の斜面でも地下壕が確認されており、それぞれがつながっている可能性も指摘されている。
学童疎開と枡形山
川崎市北部は学童疎開の疎開先として、市南部の子どもを多くの寺院等で受け入れていた歴史もある。生田緑地では、枡形山の麓にあった鍛錬道場が疎開先の一つ。学童疎開終結40年にあたる1985年には、疎開生活の記憶を伝える「輝け杉の子」の像が枡形山広場に置かれた。
枡形山に関しては、米軍の来襲に備える探照灯基地があったとされる。「今、楽しく遊んだり学んだりできる生田緑地も、軍事的には防衛のために格好の場所だった」と鶴見さん。森田さんは「川崎随一の公園緑地だが、戦争の傷跡が数多く残っている。ひとたび戦争になればこういう場所が使われてしまう。平和の大切さを知ってほしい」と話す。
会員約40人の稲田郷土史会は発足から半世紀以上、戦争遺跡に限らずさまざまな地域の歴史を紡いできた。戦後に生まれた3代目会長の鶴見さんは「戦争を体験した人がだんだん少なくなり、残してくれた記録や資料は貴重なもの」と語る。「どうやって戦争を知らない世代に語り継いでいくか」。過去と未来へ、思いを巡らせる。
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