麻生区遺族会会長の冨沢照夫さん(82)がまだ幼いころ、父・軍治さんのもとに赤紙が届いた。
軍治さんがスイカやトマト、イチゴなどを育てる技術を都内で学び、現・麻生区に戻ってきた矢先だった。旧満州に出征、終戦後に捕虜として旧ソ連に連行された。厳しい寒さ、食料も不足している中、重労働をさせられた。栄養失調になり、日本に戻った。その後、帰らぬ人となった。
「軍治」と呼ぶ祖母
母は終戦後も帰ってこない夫を探して都内を歩きまわっていたという。
祖母は我が子がいなくなった悲しさから孫である冨沢さんのことを「軍治、軍治」と呼んだ。そんな記憶が頭に残る。
農業を営んでいた父。大黒柱を失い、母と弟らと共に食物を育て、汗を流してきた。
それでも幸せ
「キャンディーが食べたい」。そう幼心に思ったが生活のことを考え、言葉を口に出さず、我慢したこともあるという。
「父がいない、それでも祖父母や母、弟が生きていたので、私はまだまだ苦しみが少なかったと思う。戦争で家族を全員亡くされた方もいる。もっとひどい境遇の人たちもいる」。そう言いながら、助けられて生きてきた長き人生を振り返り「幸せだったよ」。そう、今の思いを話した。
課題を乗り超えていく
戦争の悲惨さ、平和の尊さ、大切さを伝え続ける――。二度と起こさないために、遺族会の意義は大きいと冨沢さんは考えている。だが、会員の高齢化や減少など、壁が立ちはだかっているのが現状だ。それでも、遺族会の活動を存続させ、発展させていくために模索を続ける。「私よりもっと戦争で不幸になった人はたくさんいる」。そう言った後に「絶対に戦争を起こしてはいけない」と語気を強めた。遺された人たちの悲しみを無駄にしないために歩みをやめることはない。
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