今年は終戦から70年を迎え、日本各地では平和を祈る追悼式などが行われている。実はここ川崎市でも70年前の4月15日、市内人口の約3分の1の10万人を超える罹災者が出た川崎大空襲があった。この歴史を後世に伝えていこうと川崎市平和館でも現在「川崎大空襲記録展」が開かれている。今回、川崎市民アカデミーで川崎学の講師を務め、川崎市の歴史や戦争等を研究している渡辺賢二さん(71)に当時の様子や被害状況などを聞いた。
渡辺さんは当時、生後まもないために記憶は残ってはいないが、法政二高の教員だった20代の頃から川崎大空襲について調べ始め、これまでに『私の街から戦争が見えた』『平和のための戦争論』などの著書を出版。川崎の歴史や戦争について詳しく、川崎市民アカデミーで川崎学の講師を務めている。
◇ ◇ ◇
記者―なぜ川崎が狙われたのでしょうか?
渡辺―「川崎市は戦争用の兵器を製造する軍需産業都市として発展してきた街です。特に現在の川崎区・幸区・中原区は三菱重工や東京航空計器、富士通信機製造など多くの軍需工場が次々と建てられアメリカ軍の対象になりました。工場だけではなく、住宅地、病院、学校、田畑も燃やされたことからも軍需工場のある地域全体を破壊し尽くすという作戦が浮かび上がってきます」
記者―実際にはどれくらいの被害があったのでしょうか?
渡辺―「4月15日の川崎大空襲で襲来したB29は194機で、投下された爆弾量は照明弾90発、通常爆弾72発、破砕爆弾98発、焼夷弾1万2748発です。この時の死者数は1000人前後とされ、罹災戸数は3万5000以上、罹災者は当時の市内の人口約34万人中、10万人を超えました。市内で最初に火の手が上がったのは、現在の関東労災病院や平和公園の辺り(当時は東京航空計器)だったと記録されています。川崎駅から南側の市中心部では市役所を残して一面焼け野原となり、中原区では新丸子駅西口や中丸子駅(廃駅)、平間駅の周辺が完全に焼け野原となりました。当時9歳で中原区玉川地域に住んでいた澤中波津子さんは『空襲の恐怖と食糧難のひもじい思いは今も消えない。2歳の妹をおぶって焼夷弾が降るように落ちてくる中を必死で逃げ回り、食べるものが無く玉川小の体育館に爆弾で焼けた米を拾いに行った』というエピソードを残しております」
記者―子ども達の暮らしはどのようなものだったのでしょうか?
渡辺―「小学生は疎開が中心ですね。市内24校の小学3年〜6年生が対象になり集団疎開が行われました。中原区からは玉川国民学校213人、住吉国民学校352人、平間国民学校132人が県内の大山町へ、大戸国民学校85人が与瀬町へ、中原国民学校340人が津久井村へと避難しました。しかし大山町にも戦闘機が現れ、一人の犠牲者が出てしまいました。また中学生の生徒らは学徒勤労動員として軍需工場で仕事に従事させられました。その際に焼夷弾の直撃を受けて亡くなった生徒も多く、法政二中の生徒も2人亡くなっております」
記者―終戦後、川崎市はどうなりましたか?
渡辺―「終戦後の川崎市は復興計画を発表し、工業都市として歩み始めようとします。しかし壊滅的な被害を受けた工場からの税収は見込めず深刻な財政難に悩むことになります。また、中原区では終戦直後の1945年9月に東京航空計器が米軍に接収されました。その後、国が米軍にその土地と建物を提供することになり、アジア最大の極東印刷所が設置されました。朝鮮戦争やベトナム戦争を支える謀略印刷工場としての役割を担い、偽札なども刷られていました」
記者―どうやってその場所を取り戻したのですか?
渡辺―「中原区の住民が中心となって返還運動が行われました。1964年からスタートし、まずは、現関東労災病院と平和公園の間にかかる歩道橋の橋脚部分を含む歩道約1000平方メートルを返還、そして、二ヶ領用水北側の土地の返還と続き、1975年にようやく全面返還が実現しました。1992年には平和都市宣言を具体化するものとして平和館が開館しました。悲惨な戦争や戦後の地域、そして平和を求める市民運動など歴史の大切な教訓として若い世代に語り継いでいくことは大切な課題ですね」
なお、今回取材させて頂いた渡辺さんは、川崎中原の空襲・戦災を記録する会が平成21〜24年度中原市民館市民自主企画事業として発行した『川崎・中原の空襲の記録』の制作にも協力。「会のメンバーが3年間地道な調査や研究を行い大変素晴らしい記録本となった。是非一度見て頂きたい」と話している。
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