川崎市内に爪痕を残した令和元年東日本台風。また来るかもしれない洪水や水害に私たちはどのように予測し、備えればよいか――。3回目となる今回は、羽田猛さんに(86)に話を聞いた。
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川崎市と東京都の境を流れ、川崎市民にとって身近で母なる川ともいわれている「多摩川」。昔から二ヶ領用水を介して村々の水田を潤してきた一方、度々起こる洪水により多くの被害を与えていたため”あばれ川”とも呼ばれていた。
羽田さんによると、18世紀初頭から幕末にかけた約150年間に26回の氾濫の記録(約6年に1回程度の発生頻度)が残っているという。「当時は、堤防がなかったため、流れの変化によって村境が乱れて村同士の争いが絶えませんでした。明治のはじめ『東京府と神奈川県の境界は、多摩川の中心が境界線』と決められていました」と羽田さん。しかし、長い間に多摩川の流路の変化が、しばしば”飛び地”を作り、神奈川県の土地が、多摩川を越えて東京府になるかと思えば、東京府の土地が多摩川を越えて神奈川県になる――など、変化が絶えなかったという。
羽田さんは「宇奈根、瀬田、和泉、布田、野毛、等々力、丸子、沼部などの地名が両側にあるのはこのためです。1912(明治45)年に境界線が決定するまでは、今の中原区下沼部の子どもたちは丸子の渡しに乗って東京側の小学校に通っていました」と話す。これは、東京府荏原郡調布村大字下沼部の一部だったことが理由だ。また、等々力は、東京府荏原郡玉川村大字等々力の飛び地だったが、同年から、神奈川県橘樹郡中原村に編入された記録も残る。
地域結束、築堤へ
明治40、43年には多摩川は大洪水に見舞われ、この洪水をきっかけに飛び地をめぐる境界変更の運動が各地で展開。明治44年1月には、稲田、高津、橘、中原、御幸、大師河原村と市場村の各代表がまとまり、国に対し「東京府、神奈川県町村区域に変更に関する請願書」を提出した。「帝国議会で審議されましたが採択されず、住民は次の議会に再び提出。ようやく議決され、明治45年4月に『府県境変更の法律』が施行され、多摩川に堤防が整備されることになったのです」。
羽田さんは、著書『中原街道と武蔵小杉』や地域での講演会などを通じ、多摩川や中原街道周辺の歴史を後世に伝えようと取り組んでいる。
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