今年の箱根駅伝で駒澤大学を13年ぶりの優勝に導いた大八木弘明監督(62)。大八木監督は20代のころ、川崎市役所の職員として勤務しながら、駒澤大学経済学部の夜間部に通っていた。「川崎での6年間がなければ駒澤大学に来ることはなかった」という大八木監督。駒澤大学を箱根駅伝の常連校に育て上げるまでの軌跡で、スタート地点がここ川崎市だった。元多摩区長で、現在は川崎市陸上競技協会の理事長を務める皆川敏明さん(71)は、市役所陸上競技部で大八木監督と時間を共にした一人。当時の部員で、今でも連絡を取り合う数少ない人物だ。二人の対談で、大八木監督が川崎で過ごした6年を振り返る。
「大学に入って箱根駅伝を目指したかったけどケガと家庭の事情で一度は諦めました」と大八木監督。高校卒業後は小森印刷(現・小森コーポレーション)に就職して実業団で鍛えていた。そこで当時、川崎市陸協の理事長だった芳賀学人(たかと)氏からの突然の誘いで川崎市に転職。陸上競技部に入部した。「市役所で働きながら大学に行けるかもしれない。二度とないチャンスだと思いました」。当時の大八木監督の印象を、皆川理事長は「芳賀先生から、『大八木っていうものすごいのが来るよ』って言われてね。実際、本当に強かった。風が吹こうがアップダウンがあろうが一切口に出さない、たくましい選手」と語る。
川崎市での6年間は、市立西丸子小学校の用務員として働いた。駒澤大学に入学した24歳からは勤労学生として午後4時半には仕事を終え、学校横のグラウンドで1時間練習。その後、バイクで20分かけて大学に通い、授業が終わるのは9時半という日々。大八木監督は、「当時はとにかく時間との戦いでした。でも、走る時間だけはしっかり確保していた」と話す。幸区にあった市役所の寮に帰る途中、丸子橋を渡って新丸子の中華料理店に立ち寄るのが日課だったという。「貧血に悩んでいたので、2日に一度はレバニラを注文していましたよ」と懐かしむ。
努力の末、大八木監督は当時の年齢制限で出場資格がなかった4年時以外は毎年、箱根駅伝に出場。1年は5区、3年では2区の区間賞も獲っている。皆川理事長は「『やったぞ。大八木がやったぞ』って皆で喜んだよ」と話す。
川崎市代表で優勝も
当時の市役所陸上競技部には30人ほど所属。大八木監督は大学入学まで在籍し、その後は助っ人として関わった。皆川理事長は「郡市対抗駅伝(現・市町村対抗「かながわ駅伝」競走大会)や東日本縦断駅伝と、市や県の代表としてよく出てくれたね」と目を細める。大八木監督にとって思い出深いのは郡市対抗駅伝。「お世話になった芳賀先生が監督だったので恩返しのため頑張りました。優勝し、区間新記録もつくりました」
六郷橋、あふれる記憶
箱根駅伝では、六郷橋を渡って川崎市に入る。大八木監督の頭にはそのたびに、西丸子小で親交のあった一人の先生の顔が浮かぶという。「六郷橋の近くにその先生の家があって。若くてお金がなかった僕を応援してくれて、よくご飯を食べさせてもらいました」と回想する。皆川理事長は「西丸子小の先生、子どもたち、市役所陸上部。大八木さんは皆に愛されていたんだよ」と話す。
大八木監督は最後に、「声をかけていただいて、川崎市で過ごすことがなければ駒澤大学に来ることはなかった。人生において素晴らしい6年です」と語った。
【関連記事・Web限定】2021年箱根駅伝 優勝校・駒澤大学 大八木監督「原点は川崎」川崎市役所陸上競技部の先輩・皆川氏と再会
中原区版のローカルニュース最新6件
|
|
|
|
|
|
|
<PR>