茨城県出身の斉藤進さん(97)。16歳で開戦すると、すぐに軍属に志願した。「兄は高校に行っていたけど、自分は次男だったし。仕事をしに行くようなものだった」。横須賀にいた親戚を頼りに、横須賀海軍工廠で技術将に。戦闘機に積む無線や発動機をつくっていた。
軍属の場合、食事は困らなかったという。食堂で朝は8銭、昼は12銭、夜は15銭で味噌汁や赤飯のような見た目の高粱(こうりゃん)で腹を満たした。「美味しくはなかったね」と回顧。皆が配給切符を食堂へ渡していたため、日曜だけは白米をただで食べられたという。「それより衣服が厳しかった。靴下が手に入らなくて。銀座にいた姉にもらいに行っていた」と話す。
「負け戦だった」
19歳頃、サイパン攻撃の戦闘機の整備要員として硫黄島へ派遣された。だが船で運び込まれるはずだった部品は敵に沈められ、一向に届かない。それでも次々に集められる兵隊は「万はいたね。でも皆、玉砕だよ」。「負け戦」。ラジオでは決して言わないが、そう感じ始めていた。
しばらくして、千葉県木更津の第二海軍航空廠へ。やはり、技術将として働いた。1945年のとある日、下宿先のたばこ屋で寝ていると衝撃で目を覚ました。見ると、枕元のトランクに爆弾が直撃し、中の衣服が渦巻いていた。隣の床屋の息子は流れ弾で死亡。グラマン戦闘機による機銃掃射だった。「戦争で思い出すことといえばこの記憶。日本が何をしようと米軍にやられる。終わったなと思った」。ほどなくして終戦を迎えた。
境遇は「皆同じ」
戦後は結核を乗り越え、2女をもうけた。川崎市に来たのは32歳の頃。仲間と事業を起こし、70代まで働いた。戦時中を振り返っても「辛かったことはない。当時は皆が同じ境遇だったから」と淡々と話す。だが最後には「戦争なんてするもんじゃない。勝つところがあって負けるところがある。惨めな境遇が待っているだけ」。愁いを帯びた表情で語った。
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