防犯協会など、地域活動に長年尽力する田中明さん(94)。終戦直前に工業学校を卒業し、現在の関東労災病院の地にあった東京航空計器に勤務していた。同社は高度計や自動操縦装置など戦闘機の計器類を生産していた軍需工場の一つ。
田中さんは住吉小を卒業後、川崎市立工業学校(川崎区/当時)に入学。川崎駅からの通学路に捕虜収容所があった。時々、捕虜の外国人とすれ違うことがあり「初めて黒人を見たときはびっくりしたよ」と振り返る。「一度気が付くとたびたび見かけるようになり、目が合うと会釈したりして。相手もわからないように目配せしたりね」とささやかな交流を試みていたことも。
卒業後の希望の進路は特になかったが当時、同社の採用担当が学校まで訪れてその場で契約金を渡され、半ば強引に就職が決まった。「学校から東京航空計器に決まったのは自分を含めて3人いた。向河原と鹿島田に住んでいた人だったから、通勤が近くて良いということだったのかも」
企画課へ配属され、ひたすら図面を引く日々が始まった。職場は静寂に包まれていたという。しかし、ひとたび警報が鳴れば井田山の下にあった大きな防空壕の倉庫に機械や資材を運び入れていた。田中さんは担当していた図面をリュックに詰め背負って逃げた。
社内には学徒動員で、たくさんの学生たちも勤務していた。「特に東北の人が多かったように思う。素直ないい子でね。家に遊びに来たりしていたよ」
川崎大空襲で工場が全焼
4月15日の川崎大空襲の時には、工場にもたくさんの焼夷弾が落とされた。近くにいた人は警報と同時に呼び出された。大きな炎と黒い煙が立ち込め「ドラム缶がパーンと吹き飛んだのも、この目で見た。恐ろしかったよ」と田中さん。
次の日、改めて現場を確認しに行くと、手足がもげて黒焦げになっている人間の遺体らしきものを見つけた。その姿は今も頭から離れない。「戦争は残酷。人の争いはなくならないかもしれないが、今の日本の平和は大事にしなくては」。次代へ思いを馳せる。
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