終戦間近の1945年、空襲警報が発令され上平間の家を飛び出した。当時6歳。多摩川の土手に上がり、羽田側を見ると、B29の爆撃で空が赤く染まって見えた。軍需工場のある東京方面から焼夷弾を落としながら近づいてくる。風で焼夷弾は川崎にも落ちた。振り返り自宅を見ると、焼夷弾から出てきた油にまみれた布が家の窓に飛び散っていた。次第に窓は溶け、やがて家は焼けてしまった。備蓄のために台所の床下に埋めていた缶詰を探した。出てきたものは「カランコロン」と音を立てた。一度も食べたことのない貴重な缶詰は熱で中身がなくなっていた。降ってきた焼夷弾は多摩川の土手に突き刺さったものもあった。「土が柔らかかったから爆発しなかったんだろう」
8月15日、川崎市平間國民學校(現・平間小学校)に大勢の人が集まり玉音放送を聞いた。大人たちは額を校庭にこすりつけて土下座していた。「天皇陛下の声を初めて聞いた。ほとんどの大人が泣いていたが、自分はやっと戦争が終わったと思った」
戦後は水も電気もない多摩川土手の防空壕で半年近く生活した。焼けた家から燃えカスや廃材を拾い集め、家らしいものを建てた。10畳に一家8人。電気を引き、水は近所の井戸からもらった。「焼け跡の残る川崎駅周辺には戦災孤児がいつもたむろしていた。靴磨きや鉄くずを拾い集めて必死に生きた彼らはその後どんな人生を送ったのだろうか」
防空壕で一緒に暮らしたことのあった乳児と母親が餓死した。ガス橋から川に飛び込み自殺を図る人も何度も目にした。「住まいや食べ物がなくてみんな不安だったと思う。生きる自信がなくなっていたんだろう」。幼いころからそんな場面を見て死生観ができた。「1歳で死んでも70歳で死んでも、死ぬって同じことなんだ。死ぬことは当たり前のことなんだ」。ただ大変だったが家族と団結できたことで不幸ではなかった、とも続ける。「戦後の今、幸せか考える。今は平和で便利な時代になったが、逆に生きる力が失われてはいないだろうか」
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