市政報告 交通体系強化を目指すも、幻に終わったモノレール計画 川崎市議会議員 松原しげふみ
新百合ヶ丘駅から武蔵小杉駅を経て川崎駅へと続く川崎縦貫高速鉄道(市営地下鉄)計画は、財政負担が過大で事業着手できる状況にないとして、一時計画を休止し平成29年6月のまちづくり委員会に於いて「計画を休止している川崎縦貫鉄道計画については廃止を前提に今後の方向性を明確にしてまいります」と報告。翌平成30年3月の「総合都市交通計画の中間見通し」の中で計画廃止が正式決定したことは記憶に新しいところですが、昭和49年策定の「新総合計画」の中で市民の足の確保や生活圏の構想に関し「モノレール」の設置を本格的に模索していたことはあまり知られておりません。この度、「川崎市公文書館」のご協力を得て調査しましたので、その一端をご報告させていただきます。
今から60年前の昭和38(1963)年、当時の金刺不二太郎川崎市長は「産業経済の発展は、必然的に人口増加を呼び、その凄まじさは数年を経ずに100万に達することは避けられないすう勢にあります。しかも、人口の増加が住宅難、交通難、あるいは水道や学校の不足といった都市問題を生み出してくることは承知のとおりであります」と、川崎市総合計画の中で述べております。
事実、市内西北部ではベッドタウンの形成充実が進展し、臨海地域や市外に通勤する人の増加に伴い、予ねてより交通の不便さが問題とされておりました。其時、国鉄南武線の6両編成計画により4両編成時の50%の輸送力増強が見込まれるとともに、バス路線の新設による輸送力の支援と具体化には至らないまでも、「将来は埠頭から登戸方面に至る地下鉄ないし、『モノレール』の建設計画をも検討したい」とし、「基幹産業である臨海部の強化育成を図るため、トロリーバス及びバス路線の新設を考慮するとともに、南武線の川崎駅におけるスイッチバックにより臨海部への乗り入れを実現できるよう努力したい」との考えでありました。昭和38年の金刺市長時代に策定されたモノレール計画は昭和46(1970)年に伊藤三郎市長に引き継がれ、モノレール建設計画の素案である「川崎市における交通輸送機関の最適ネットワーク形成のための調査報告書」が示され、高津区の田園都市線と多摩区の小田急線を中心とした地域循環の円環構造の路線が計画されました。また、モノレール計画と同時進行で南武線とは別ルートの市内縦断鉄道の設置も計画されておりました。
当時の新聞によると、未来の乗り物として脚光を浴びている「リニアモーター車」導入の公算が強くなってきているとの記事がありました。「リニアモーター車」は騒音・振動がなく、無公害の乗り物で、導入が実現すれば建設のために必要な道路幅も少なく用地の買収費が軽減され、川崎に未来の乗り物が早々に登場すると注目を集め、環境問題解決に取り組む本市の将来を見据えた取り組みを読み取ることができます。昭和38年に策定されたモノレール計画は順調に進展=下記画像=しておりましたが、昭和56年度にモノレール設置にあたりルートの導入空間不足や経営主体の問題があったようで、一括開通から部分開通へと一旦計画が変更されてしまいました。これまでのモノレール建設の進行に鑑み、何やら雲行きが変わってしまった感が否めませんが、昭和58年度第1回市議会定例会の伊藤三郎市長の施政方針の中で交通体系の整備について、「川崎市の地域特性と今後の発展性を踏まえ、鉄道、バス、幹線道路の強化を図り、第一に南武線高架化事業について用地取得を図り、事業の推進に努めていく」とし、モノレール計画への言及は無く、その後、縦断鉄道の設置へと方向転換されていきました。
冒頭に記した通り、財政負担等の問題で市営地下鉄計画は廃止となりましたが、交通体系の強化のため、地域特性や市民ニーズを十分に把握した上で、新たな交通ネットワークを確立する必要がありますので、行政に対し交通環境の改善、向上を求めてまいります。
松原しげふみ事務所
中原区新城5-2-3
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11月29日
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