1945年8月15日、まだ8歳だったがラジオから流れた終戦の玉音放送を聞いたことは覚えている。「11歳上の兄は悔しくて泣いていたね」。兄・一太郎さんは8月26日に後方支援部隊として出兵することが決まっていた。少し前には家族そろって近くの写真店で記念写真を撮ったばかりだった。「兵隊送りと言って、花輪の前で写したんだ」
下小田中で生まれ育った。当時5丁目の周囲は田んぼばかりで、家は7件ほど。何人かが戦地へ赴いたが、戦死者は一人も出なかった。家の近所に岩川(今の江川せせらぎ遊歩道の辺り)が流れていて、竹藪の下には家族10人ほどが入れる防空壕があった。近隣には無線機を作っている富士通の工場や高津区蟹ケ谷の海軍東京通信隊があり、B29爆撃機が頻繁にやってきた。「空襲警報のサイレンが鳴ると、家族で防空壕に逃げ込んで一晩を過ごしたよ。空を見上げ、編成を組んで上空を旋回するB29爆撃機を数えたもんだ」。米軍機はかなり高いところを飛んでいて、宮内の高射砲台から発射された砲弾はほとんど命中しなかったという。
子どもたちは、田んぼに落ちて燃えなかった焼夷弾を集め、鉄くず屋に売ってこづかいを稼いだ。「不運にも信管に指が触れてしまい、爆発することもあった。中学に入学すると、年上の子の中には指のない子が何人かいたね」
45年5月29日の横浜大空襲のことは忘れない。「夜になると、南の方の空が真っ赤に燃えているんだ。それが1週間も続いたんだよ。怖かったね」。終戦間際には米軍の飛行機から「日本は負ける」と書かれたビラがまかれた。両親には絶対に拾ってはだめだときつく言われたが、日露戦争を経験した父の様子から日本は負けるらしいことが感じ取れた。
4年前に、63年連れ添った妻を亡くした。今も世界では戦争が続く。「戦争は大人の勝手な都合。何よりも子どもたちがかわいそうだ。昔の戦争もひどかったけど、今はもっとひどい」。紛争に明け暮れるニュースを見るたびに、自身も子どもだったときに経験したことを思い出す。
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戦後79年を経て、戦争の記憶が風化しつつある。体験者の記憶を後世に残すとともに平和の意義について考える。
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