今年で15周年を迎えた明治大学平和教育登戸研究所資料館(多摩区)は、太平洋戦争における日本の加害の史実を伝える貴重な施設だ。1980年代にこの史実を掘り起こし、歴史に刻む役割を果たしたのは、高校生を含む川崎市民だった。なぜ、市民が重要な歴史に迫ることが出来たのか。法政二高(中原区)の元教員で、資料館の展示専門委員の渡辺賢二さん(81)の証言を、2回に分けてお伝えする。
平和教育学級
登戸研究所は戦時中、旧日本陸軍が「秘密戦」を展開するために化学兵器や偽札などを極秘で研究・開発していた施設だった。1937年に現在の明治大学生田キャンパスがあるエリアに都内から移転され、敷地一帯に工場や研究棟が並んでいたという。
研究所では軍関係者のほか、近隣の川崎市民を働き手として召集し、仕事の内容や所内で見聞きしたことは「軍事機密」とされた。さらに終戦と共に研究設備は破壊されて記録も焼却されたため、戦後長らく研究所の詳細は謎のままだった。
この史実を掘り起こしたのが、中原区民を中心とする「平和教育学級」のメンバーだ。「平和教育学級」は川崎市教育委員会が85年度から主催した市民講座だった。7区の市民館を拠点に多くの歴史講座が開かれた。中原区のチームを率いたのが、法政二高の教員だった渡辺さんだった。
43年に秋田県で生まれた渡辺さんに戦争の記憶はなかったが、新任教員のころ、先輩に「これを考えてみて」と資料を渡された。その一枚に航空兵らしき青年と零戦が描かれ、大きな字で「我らみな 大君に すべてを捧げん」とあった。当時の小学6年生が、45年3月の東京大空襲直前に書いたものだった。
渡辺さんは「子どもが『天皇に命を捧げる』ことを当然と思った時代を深く知り、教員として考え続けなくては。そう決意するきっかけだった」。そして歴史教育に取り組み始めたという。
基地返還運動
川崎市の「平和教育学級」にも、大きな時代背景があった。
戦後、現在の中原区にあった「東京航空計器」が米軍に接収され、米軍の出版センターが開設された。だが67年、センター近くの道路で基地関係者が交通事故を起こし、川崎の小学生が犠牲になる事件が発生。市民は子どもたちのために歩道橋の設置を強く求め、これが「基地返還運動」となり、75年に全面返還された。出版センターの跡地にふたつの公園を統合して整備したものが、現在の中原平和公園だ。
交通事故が起きた翌年に法政二高に着任した渡辺さんは、当時の光景をよく覚えているという。「歩道橋をかけられないのは土地を接収した米軍のせいだと市民が声を上げ、国をも動かすうねりとなった。その機運の中で市として平和宣言を出し、平和教育学級へつながった。高校生たちも、時代の空気を感じて育ちました」
川崎市は82年に「核兵器廃絶平和都市宣言」を打ち出した。渡辺さん率いる「平和教育学級」のチームが登戸研究所の史実を発掘したのは、その6年後のことだった。(次回に続く)
![]() 先輩から「考えなさい」と渡された戦中の子どもの作文
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