麻生の歴史を探る 麻生の古道(1) 尊氏伝承道
緑区鉄町と早野の境の尾根道に”鉄火松”と呼ぶ大松がありました。枝が蛇のもたげた鎌首のようだったので”おろち松”とも言われました。その昔、両村民が焼けた鉄棒を握って境界争いをしたことから、その名が付いたとの逸話があります。結果は早野村が勝ったことから鉄火松は早野側となりました。この松は昭和22年に枯れてしまい、現在は麻生老人クラブによって跡地に碑が立てられています。
この尾根道が”尊氏道”と伝承されています。鎌倉幕府が滅び建武の中興に成功した尊氏は弟直義との確執となりました。直義が鎌倉を占拠しますが、正平6(1351)年尊氏は是政で多摩川を渡り、稲城、高石、万福寺、早野、そして寺家、鴨志田、青砥(中山)と軍を進め鎌倉で直義を死に追い込んでしまうと伝承されるのがこの道です。現在、ここでは早野聖地公園に伴う遺跡調査が行われていますが、縄文時代からの遺跡が発掘され、鎌倉・室町の時代この地に道筋があったことを証明しています。
この鉄火松から王禅寺に向かう黒須田境の稜線に”並木の大松”と呼ぶ樹齢600年ほどの4〜5本の老松があり、中でも”太郎松”と称する松(黒須田側にあった)は推定樹齢1000年、樹高30m。これらの松は遠く麻生や三輪から望見され、その尾根道を示していましたが、惜しいことに昭和40年東急不動産の虹ヶ丘団地開発でその姿を消してしまいました。
この並木の松の道は、現在すっかり姿を変えた虹ヶ丘1丁目あたりから古刹王禅寺に通じており、それは元禄15(1702)年の早野村検地水帳に「並木町間数 百七拾弐間(310m)」と記されている(早野郷土誌)そうで、この松並木は現王禅寺観音堂の参道に接する小字門前に接していたようです。
門前とは王禅寺の表口で現在の虹ヶ丘東急営業所十字路一帯がこれに当たり、王禅寺には塔頭6寺があったのでその名がついたと思われます。この門前から通称「兎坂(うさぎさか)」と呼ぶ荏子田(えこだ)に通ずる幅6尺ほどの山道(すすき野小あたり)があり、この道はさらに石川・荏田に通じていました。荏田というと前稿真福寺のあるところ、王禅寺末寺36寺中、荏田・石川に6ヶ寺、そのうち寺家・谷本・鉄とその半数を現青葉区内が占めていますので、尊氏道も兎坂もひと時の軍道で、王禅寺への参詣道であり、村と村を結ぶ里道であったのではないでしょうか。そうすると、並木松の存在も門前の地名も一層頷けてまいります。
万福寺・高石への道は現王禅寺ふるさと公園の尾根を通りました。ここには近世草競馬の跡が残されており、王禅寺裏門に達しますが、裏門坂とは文字通り王禅寺の裏門があったところで溝の口道とも呼び、日吉の辻があり東進すると通称山王坂(さんのうざか)を超え保木から石川〜荏田へ、北進すると高石・菅尾に至っていました。この裏門坂は昭和7年幅9尺ほどの尾根道を崩して切通し(現野川柿生線)としましたが、古老の話ではその道筋は弘法の松に沿って延びていたそうで、ここには王禅寺の墓地古蘭塔(ふうらんとう)があり、その西側に堀割状の古道が今でもわずかに残されています。
参考資料:「ふるさと早野を語る(郷土誌刊行会)」「歩け歩こう麻生の里(麻生老人クラブ)」「青葉のあゆみ(青葉区役所)」
(文:柿生郷土史料館相談役 小島一也)
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