柿生文化を読む 第146回 シリーズ「麻生の歴史を探る」名家志村家 後編
【前編から続く】
この頃、上田1反部の米の取れ高は約1石5斗。これに対して年貢米は5斗。増上寺領には別の租税があったといい、そうした中で起きたのが1708年の富士山噴火で、この弥五右衛門は御救米の供出に努力したと言われ、のちの豪商「長谷川」が創業されたのもこの頃とされ、多くの業績を残して、享保10年(1725)に没しています。
以後の志村家は文右衛門(8代)宗右衛門(9代)忠蔵(10代)と家督を守り、王禅寺の名主年寄を務めますが、当時王禅寺村にも多かった農民の農間渡世は商品経済を発展させ(揚屋一家創立もこの頃)、大山街道の間道(登戸〜相模)にある「長谷川」は、米穀・酒・油・小間物の問屋として、近郷近在に知られていきます。この頃起きたのが1783年浅間山の大噴火と天明の大飢饉で、その時の志村家の当主は2代目弥五右衛門でした(11代)。この飢饉は王禅寺とても例外ではなく、この弥五右衛門は私財を投じて貧民を救ったといい、増上寺と増上寺領25ヶ村農民との間に年貢騒動が起こった際、増上寺世話人でもあった弥五右衛門は公儀(幕府)・増上寺に「稲作一向実り申さず、畑作何れも皆無同様」(川崎市史)と訴え、王禅寺村は増上寺より50両の拝借金を得た、と記載があるようです。弥五右衛門は惜しいことに病で文化7年(1810)に没しています。
この後を継いだのが3代目(12代)弥五右衛門で、その後継が現琴平神社創建で知られる息子の志村文之丞で、16歳の時から諸国の金毘羅宮に参拝、四国讃岐の金毘羅宮には45回詣でて御神霊を奉斎したと言われています。天保14年(1843)志村家の所持する田畑は6町歩余、加えて山林14ヶ所、炭窯19、そして店舗「長谷川」は質屋も兼ね、その商いは米穀・太物(呉服)・酒・油・荒物(金属)・〆粕・干鰯など肥料にも及び、使用人は20を超えたといい、天保4年(1833)の大飢饉には「王禅寺村弥五右衛門(文之丞)飢饉を救う」(川崎市史)とあり、この志村家の所持田畑は、慶応年間(1865〜8)も変わりませんでしたが、明治維新、幕府・増上寺領の解体により、その衰えをみせています。
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