柿生文化を読む
【前編から続く】
享和元年(1801)の補任状には「武州岡上醍醐院三宝御門院主 当山修験派圓覚院」の文字があるそうですから、岡上の四院は京都伏見の醍醐寺(秀吉の醍醐の桜、国宝五重塔で有名)を本山としていたことが判ります。
また、この岡上山伏の存在を示す資料として、慶応4年(1868)、岡上村名主から幕府への差出書の中には、寺宝院、玉宝院、泉谷院、圓覚院の記載があり、「右之者 百姓地住居地方は村役人支配請人別地頭村へ書上 触頭鳳覚寺へも人別書出申候由 銘々不動堂一ヶ所宛所持仕候」と申告しています。この鳳覚寺とは前記奈良鳳覚寺の分院が東京青山にあったそうで、そこの支配を受けていたのでしょう。
明治5年5月、維新の太政官令でこの修験道は廃止の布告を受けます。従って岡上四坊の圓覚院(高松三春家)・持宝院(高松道雄家)・玉宝院(梶孝男家)・泉宝院(梶孝男家)は、帰農、改姓して一般農家となりますが、圓覚院(高松三春家)には、不動堂が残されており(二度お参りしたことがある)、九尺二間程の小さなお堂で、正面には、お厨子に納められた不動明王像が安置され、法螺貝・法具や木版木易書と思える書籍が納められていましたが、今は不動尊像・法具は京都三宝院へ返納され、書籍類は川崎市民ミュージアムに寄贈されているそうです。
帰農後の四家(坊)は、一般岡上村民としての生活を送りますが、泉宝院(梶孝男家)の墓碑を見ると文政13年(1830)山伏時代の墓石には「泉宝院権大僧都等空法師印」と山伏の階位を示すいかめしい法名のものが、帰農後の明治26年(1893)に亡くなられた梶家の当主龍泉氏の墓石には「龍岳法泉信士」と印されています。なお、この龍泉氏は奈良県吉野の金峰山を本拠とする「神道御嶽教」の訓尊(役員)だったそうですが、一般人と変わらぬ戒名となっています。四家(坊)は、東光院(真言宗)の檀家となり、持宝院の不動尊は、東光院に納められ、260余年の里山伏の歴史が閉じられます。なお明治44年(1911)神奈川県知事より「世にも珍しい三孝子」の表彰を受けたのは、この持宝院(高松家)の人であったことを付記しておきます。
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