柿生文化を読む シリーズ「鶴見川流域の中世」 稲毛庄の定説を見直す〜稲毛庄と畠山氏の関わり【2】文:中西望介(戦国史研究会会員・都筑橘樹研究会員)
畠山重忠滅亡後に重忠の側近である本田近常の子孫は薩摩島津氏の被官化している。この本田氏を介して畠山氏に関する精度の高い情報が薩摩国に伝わった可能性が高いので、「平姓指宿氏系図」の史料的な価値は無視できないとして渋口説を補強している。清水亮氏はさらに稲毛庄の設立・現地支配には畠山重能・小山田有重兄弟が関わっているとのべている。
清水亮説にはいくつかの検討すべき課題が残されているが、渋江説が系図を唯一の根拠としているのに比べて渋口説は傾聴すべき点がある。渋口郷については既に143〜144号で触れているがもう一度取り上げてみよう。
さて、清水亮説に従うと渋口重宗が稲毛庄内渋口郷を本貫地とする背景には、稲毛庄の設立に関わった重宗の父畠山重能の存在があり、稲毛重成が稲毛庄を本拠地とする背景には重成の父小山田有重の存在があることになる。
畠山重忠が元久二年(1205)に二俣川で討たれると、従弟の稲毛重成は重忠を讒訴した咎で弟の榛谷重朝とともに誅殺されている。一方、畠山重忠の弟長野三郎重清は信濃国にいたが「被誅重忠之後」に自殺に追い込まれている(「桓武平氏諸流系図」)。しかし、重宗は奥州にいたと『吾妻鏡』に記されているが「桓武平氏諸流系図」にある三郎重清のような重忠誅殺に連座した注記は見られないので、生き延びた可能性も否定できない。この事も清水亮氏が論拠とした「鎌倉年代記裏書」建保元年条における渋口六郎の傍証となる。 (つづく)
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