柿生文化を読む シリーズ「草創期の柿生中学校」卒業生の進路〜就職難と金の卵〜【2】文:小林基男(柿生郷土史料館専門委員)
念のために昭和24年という年を振り返っておきましょう。この年4月から、有名なドッジ・ラインと呼ばれる超緊縮のデフレ政策がとられています。日本の敗戦直後の昭和20(1945)年8月と24(49)年4月の物価を比べると、丁度100倍になっています。もの凄いインフレです。「このままでは日本経済の底抜けが危ぶまれる。」こう考えたGHQは、デトロイト銀行総裁のジョゼフ・ドッジを招き、超緊縮予算による財政支出の削減と均衡、1ドル=360円の単一為替レートの確定など、日本経済再建のための荒療治を施します。ハイパー・インフレにしろ、超緊縮の徹底したデフレ政策にしろ、中小企業の経営者や庶民にとっては、将来に明るさが見えない経済状況でした。二期生が卒業した昭和25年3月に見て取れますが、この年は運よく就職できたのは、僅かに5名だけという深刻なデフレ不況の中にありました。このデフレ不況からの出口はというと、隣国朝鮮での朝鮮戦争(1950〜53年)という神風によって、思いがけず早期に脱却することが出来たのです。
少し時代が下りますが、昭和30(1955)年4月に、新卒教員として着任された吉岡節子先生の手記によれば、先生は人手不足の関係で専門の美術の外に家庭科の授業も担当されたのですが、「廊下を歩くたびに、保健室などから3年生に呼び止められ、新米の私を、最上級生が大事にしてくれていた」と感謝の弁を記され、さらにこう書かれます。「しかし、これも授業中のみで、放課後、終鈴となると、嘘のようにサッと消えてしまう。家業(農業)の手伝い、労働の担い手として、家路を急ぐためだ。」(『三十周年記念誌』)と。
(つづく)
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