麻生の歴史を探る 麻生の古道(3) 義経伝承道
生田枡形山公園に麻生亀井城の表示がありますが、これは前項「亀井館」への方向を示したものです。このルートは多摩丘陵を縦断する尾根道で、その道筋にはいくつかの伝承があります。
その一つが「義経伝承のルート」で、これは菅の寿福寺〜高石の二枚橋〜現百合ヶ丘の鍋ころがし〜弘法の松〜山口台〜そして亀井城に至るものです。稲毛三郎が枡形、小沢城を築いたのが養和元年(1181)頃と言われ、その頃、義経・弁慶も寿福寺詣りをしていますので、義経主従は枡形の城を訪れていたかもしれません。
亀井の館には”馬の証文”の逸話があり、それは、大国魂神社(六所社)に頼朝の名代が参賀したとき乗馬が病に倒れ、弁慶が急いで麻生亀井の館から大栗毛を取り寄せ、亀井六郎に借り証文を書いたとするもので、六所社ではこれを木版刷りにし、馬の災厄除けにしたそうで(稲毛郷土史)、亀井館跡にはいまも厩舎、馬場と覚しきところが見受けられます。
枡形への道はこの馬場跡と思われるところから幅6尺(1・8m)ほどの尾根道が現在のおっ越山公園まで今も残っています。その道筋はさらに真福寺と上麻生間の稜線を弘法の松に向かっていました。現柿生中学校下のバス路線道は昭和53年に切通しとなりましたが、それまでは川崎市内唯一のトンネル”柿生隧道(昭和52年開通)”があり、その上を横切る形で尾根道が続いていました。そこにはかつて”下駄切り坂”と呼ぶ真福寺村と上麻生村を繋ぐ尾根越えの難儀な急坂道があって、この地方が谷戸と谷戸を結ぶ交通に苦労があった事をうかがわせています。
これから先、日光台、山口台、勧銀土地の造成はその道筋を無くしてしまいました。だが開発に伴う遺跡調査は縄文時代以来この地に人が住み、平安、鎌倉、室町とそれなりの村の文化があった事を証明しています。
この山口台の道筋には”中巳谷戸”と呼ぶ綺麗な清水が湧き出る谷戸があったそうです。中巳とは陰暦3月中旬の巳の日のことで、その昔、平安貴族の間で清水で身を浄め盃を傾ける”曲水の宴”があったことからその名が付いたと伝承されます。この谷戸は後の津久井往還に接し、大坂と呼ばれた長い坂道(まきば生花前交差点より勧銀土地に向かう坂道に面影があります)があって、弘法の松に向かってそこを登っていくと、お屋敷台と呼び、上麻生村の領主、旗本三井万三郎の屋敷が置かれ、その峠にはお茶屋がありました。現在、送電鉄塔があって開発を免れ、それと思しきところを見ることができます。一方、真福寺側には広い谷戸田に沿った里道(現日光、吹込)が弘法の松に向かい、そこに”鶴亀松”と呼ぶ2本の相生の松がありました。鶴松は天空にそびえ、亀松は地を這う太い松でしたが、昭和16年姿を消しています(現鶴亀松公園に二世あり)。この鶴亀松の道は山口台を横断、大坂(津久井道)と結んでいます。
この弘法の松は、高石村、上麻生村の境松で、弘法大師の伝説で知られますが、往時から交通の要所でした。明治14年版の地図を見ると、この地点から高石(追分)、生田(長沢)への道が太線で示され、さらに他にも点線(里道)があます。この太線の尾根道は伝承通りの鎌倉道ではなかったかと思われ、後に江戸道(津久井往還)となりますが、海抜100m余、展望絶佳のこの地(現弘法の松公園)は、城郭に代わって戦ごとに人馬が屯したのではないでしょうか。
参考資料:「川崎市史」「稲毛郷土史」「歩け歩こう麻生の里」「フランス式彩色地図」文:小島一也(柿生郷土史料館相談役)
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