柿生文化を読む 参考資料:「横浜青葉区史」「ふるさとは語る(柿生郷土史刊行会)」「歩け歩こう麻生の里」「川崎市史」「新編武蔵風土記稿」第139回 シリーズ「麻生の歴史を探る」水争い 前編
稲作を中心とする当時の農業にとって、水は水田の生命で、古くから農民はこの灌漑用水の取得に苦労を重ね、市内では多摩川流域の二ヶ領用水や大丸用水は世に知られますが、谷戸田の多い丘陵部のこの地方には、この地方なりの用水取得の努力がありました。
このことを新編武蔵風土記稿で見ると、「わき出ずる清水を用い、用水の便悪ければ、雨水をたたえて耕に備う、故に旱損の患あり」と各村共通の特性を記しています。雨水をたたえて耕に備うとは溜池のことで、これを数えると、上麻生村には5カ所、早野村に7カ所、王禅寺村に7カ所、下麻生村、栗木村に2カ所、その他細山村や黒川村には溜井と呼ぶところがあります。現在この溜池は、早野の七つ池、白山のむじなが池、下麻生の籠口の池にその面影を残し、栗木の鳶(とんび)池公園には、その跡碑を残し、金程「向原の池」跡には、文政十一年(1828)建立の池の守り神「弁財天」像が今も保存されています。
一方、谷戸からの湧き水は、早野川、真福寺川、麻生川、片平川、三沢川(黒川)、五反田川(高石)となって流域に耕地を造り出し、これを豊穣の上田としています。川の流れを堰き止めて、灌漑用水としているのが「堰」で、片平川は「7堰」で知られていますが、どの川にも2〜3の堰があったようです。
麻生区内で一番広い耕地は麻生川流域の8町8反(8・8ヘクタール)の白根耕地(現水処理センター、麻生病院)で、これへの潅漑は上麻生村か片平村に要請して、片平川末流に熊野堰を造り取水をしていました。区内で一番大きな堰は、上麻生の東林寺下の麻生川を堰き止めて取水口を設けた「東林寺堰」で、大ヶ谷戸から仲村、亀井、そして下麻生村早野境まで幅約2m、延長1500m。川底の浅い真福寺川を水路(途場と呼ばれた)で越す珍しい用水路で、隣村三輪村農民の耕地を含め、約25ヘクタールの潅漑をしていました。
【後編に続く】
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