柿生文化を読む シリーズ「鶴見川流域の中世」 源頼朝の嫡男誕生に鳴弦の役を果たした師岡重経【2】文:中西望介(戦国史研究会会員・都筑橘樹研究会員)
さて、師岡重経は秩父平氏河越流の一族とされているがそのことを記した系図は少ない。大正2年(1913)に刊行された渡辺世祐・八代国治共著『武蔵武士』では河越重頼の弟としている。「正宗寺本 諸家系図」では秩父二郎大夫重隆―重仲(師岡三郎)―重経(佐兵衛)が見える。この系図によれば重隆の子息重仲がはじめて師岡三郎を名乗り、その子息重経は佐兵衛尉重経と名乗っている。師岡重経は河越重頼の従弟に当たる事になる。いずれとも断定は出来ないが、師岡重経が河越重頼と同世代であり、平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した秩父平氏河越流の一族であることは事実であろう。
師岡兵衛尉重経は『吾妻鏡』寿永元年(1182)八月十二日条に源頼朝の嫡男頼家誕生に際して鳴弦の役を果たしている。十一日の晩に御台所(北条政子)に出産の気配があると知らせをうけて頼朝も比企氏館に駆け付け、在鎌倉の御家人らが衆参した。在国の御家人も続々と鎌倉に参上した。無事な出産を祈願して奉幣の御使者を、伊豆箱根両所権現ならびに近国の由緒ある宮社に遣わしている。期待と緊張が高まる中で、無事男子(頼家)が誕生した。頼朝にとって後継者となるべき男子の誕生である。この時の祈祷は専光坊阿闍梨良暹と大法師観修、鳴弦の役は師岡兵衛尉重経、大庭平太景義、多々良権守貞義、引目の役は上総権介広常であったと『吾妻鏡』は記している。※この時すでに重経は兵衛尉に任官していたのか、吾妻鏡編者の誤記なのか疑問が残る。検討課題である。(つづく)
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