柿生文化を読む シリーズ「草創期の柿生中学校」下駄切坂と柿生隧道の建設【3】文:小林基男(柿生郷土史料館専門委員)
1945(昭和20)年、ポツダム宣言を受諾して戦争は終結。GHQの占領下にあった1949(昭和24)年に、中断していたトンネル建設が話題に上り、財政難の中、負担のかなりの部分を地元で受け入れることで話がまとまり、上麻生側の道路敷地の負担分については、トンネルの恩恵が大きい真福寺が白山神社の山林の一部を代替地として提供することで、話がまとまったのです。こうして上麻生側からは土木会社の堀一組が、真福寺側からは前記4集落の労力奉仕で掘り進め、途中、高低差がでるというハプニングを挟んで、1951(昭和26)年9月に、ようやくにして川崎市内唯一のトンネル、距離にして60・1mの「柿生隧道」(命名 金刺川崎市長)が完成したのです。当時1年生だった6期生は、「急峻で雨でぬかるんだ下駄切坂を通るのが嫌だった。滑って転んで骨折した友人もいた。下駄切坂を通らずに学校に行けるので、通学がとても楽になった」と、喜びを語ってくれました。
(つづく)
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