米軍のB29爆撃機200機が川崎を襲った「川崎大空襲」から76年の4月15日、幸区都町の延命寺で、さいわい歴史の会(並木章会長)による「慰霊の会」が執り行われた。並木会長は「戦争の悲惨さや平和の大切さを語り継いでいかなければならない」と話す。
当日は同会メンバーを中心に10人程が参加。供養塔と慰霊碑に線香と花を手向け、手を合わせた。石碑には159人の犠牲者の名前が刻まれている。並木会長は「石碑の字は時とともに薄れてしまっている。記憶にはしっかり刻んでいかないと」と思いを述べた。
川崎大空襲の罹災者は10万人を超え、都町の死者は200人にのぼる。現在の都町交差点にあったロータリーが当時、避難場所に指定されていたが、同所が爆撃を受けたことで多くの人が犠牲となった。「照明弾が投下され、昼間のように明るくなったと聞いている」と並木会長。遺体の多くは戸板に乗せて延命寺に運び込まれた。憲兵が穴を掘って土葬しようとしたところを当時の住職が制止し、隣の風呂屋の材木を燃料に、三日三晩かけて荼毘に付したという。その際、身元が分かる人の名前を書き留め、空襲から2年後に慰霊碑に名前を刻んだ。
同会は毎年、慰霊の会に合わせて被災者に体験談を語ってもらっているが、高齢化などにより区内の語り手も少なくなっているという。今年は東京大空襲を経験した二瓶治代さん(84)を招いた。並木会長は「幸区は新住民も多い。この地域がどのような歴史をたどってきたか伝えていくことが必要」と話した。
「本当のことを知る努力を」
慰霊の会で二瓶さんは被災時の様子を赤裸々に語った。当時8歳だった二瓶さんは空襲の前日、友達と「戦争ごっこ」をして遊び「また明日」と約束して別れたという。「その約束は果たされなかった。友人とはもう会えませんでした」と静かに語った。東京が火の海に包まれ、生きながら焼かれていく人の姿は今でも目に焼き付いている。
二瓶さんは両親、妹とはぐれ、炎から逃げ惑う人の中に埋もれた。気付いた時には折り重なるやけぼっくいのようになった遺体の中から父親に助け出された。「こんなになっちゃった」。ただ一言、そう感じたという。
二瓶さんは「どんなことがあっても戦争だけはしてはいけない。当時は言葉を奪われ、表現を奪われ、だまされてきたことで戦争に向かってしまった。若い人には本当のことを知ろうとする努力をしてほしい」と話した。加えて「子どもや孫が平和な時代に当たり前の生活を送れる時代が続くことを願っています」と締めくくった。
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