戦争の悲惨さを訴え続けていこうと、講演会や連載コラムの執筆活動に力を注ぐ涌田さんは、終戦を勤労動員として勤務していた火薬廠(工場)で迎えた。
涌田さんは1928年(昭和3年)に横浜で生まれ、ほどなく移住した海老名(当時の高座郡)で少年時代を過ごした。旧制中学3年の16歳のとき、国の政策として強行された学生・ 生徒の産業部門への勤労動員により平塚の海軍火薬廠に1年半ほど動員され、勤務にあたった。平塚八幡宮の裏にあった工場ではロケット火薬を作り、夜勤に就くことも。よく働く少年で、勤労が認められて表彰も受けた。
そうした中、戦況は悪化の一途をたどり、国の食糧の配給が遅延した。都市部では食糧難に陥り、ヤミ市でさつまいもなどを購入する姿が目立った。自身は勤労動員による寮生活で米の飯が食べられ、1日3食を確保されていたが、食べ盛りの時期にしては量が限られていた。「それでも、食べられるだけよかった」と回想する。
1945年7月16日、平塚空襲が起こる。火薬廠がある平塚市は戦闘機B29の爆撃に遭い、まちは火の海と化した。爆撃の最中、工場の仲間と命からがら伊勢原方面に逃げた。途中、焼夷弾が近くに落ち、死が迫るほどの恐怖を感じた。小型機の空襲は毎日のように受けていたが、B29の爆撃は想像以上。何とか逃げ延びたが、市内のほとんどが焼け野原になった。
迎えた8月15日の終戦。天皇出席のもと、重要な国策を決める御前会議で玉音放送が流されることが決まったことを知り、工場でも放送を聞いてから昼食を取るよう指示を受けた。玉音放送が終わった時の気持ちに思いを巡らせ、「正直、ホッとした」の言葉に感慨がにじむ。
忘れられないのはその日の晩。それまで暗幕で電球を隠し、毎日暗くして夜を過ごした家々に灯りがともり出した。空襲もパタリと止んだ。「これで戦争が終わった、平和が来たんだと実感した。とにかく空襲がなくなったことが、一番うれしかった」と笑みを浮かべた。
「男子は戦争に取られる」、これが当時の親の概念だった時代。地域の出征兵士が戦争に向かい、戦禍を被り遺骨となって帰って来る。それが地域の誇りであり、名誉だといわれていたそんな時代だ。そうした時代背景を顧み、涌田さんは「それは建前だったと思う。大部分の国民は冷静に戦況を見つめ、そして国家を見つめていた」と戦中を振り返る。「公言こそしなかったが、私は戦争に行きたいとは思わなかった」と言い切る。
現代に対する警鐘も忘れない。昨今の隣国との摩擦による不穏な関係を危惧し、平和を維持するためにも、外交を通じた隣国との良好な関係づくりの大切さを説く。そして最後は力強く、こう口にした。
「平和は徹底的に守りぬかなければならない」
90歳を超えてもなお募る、平和への思い。揺るぎない覚悟でこれからも力の限り訴え続ける。
終戦から74年となりました。戦中、戦後の苦難を絶対に忘れぬよう、激動の当時を生きた方々からお話をお聞きし、平和を心に刻む機会といたします。