相模原などの地域が属した高座郡で、昭和期に飼育されていたブランド豚「高座豚」。上溝でも数多く飼育されていた記録が残る。その中には上溝で生まれ、全国に名を馳せた名豚もいた。
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かつて畑作や養蚕が盛んだった相模原。一方、明治以降は食生活の変化から、次第に畜産にも注目が集まるように。明治40年に高座郡農会が千葉などから種豚を購入し繁殖させたことから、郡内の農家の多くが養豚も行うようになった。
昭和7年には同会が日本でも主流となる中ヨークシャー種の雄2頭をイングランドから購入すると、上溝と綾瀬の農家に1頭ずつ預けられた。その後、同品種は500頭に種付けされ、2500頭が誕生。これにより高座郡での種豚の品種改良が急速に進む中、その内の一頭が10年の「全国肉畜博覧会」で「高座豚」の名を博し優勝したことを機にその名が全国に知られるようになった。
養豚業が隆盛を極めた戦後。豚の品評会が各地で盛んに行われるようになると、上溝の高座豚はより一層知れ渡るように。昭和27年に初開催された種豚と肉豚の日本一を競う「全日本豚共進会」では優等賞を獲得。第3回では、上溝で種豚の改良に取り組んでいた村田畜産(現ムラタカンパニー)の村田留吉さんが育てた高座豚が、日本一にあたる「名誉賞」を初受賞した。留吉さんに贈られた石碑には、「全日本ニ系統ヲ残シ我ガ国ノ種豚改良ノ基礎トナル」と、品種改良に貢献した旨が記されている。
養豚が農家の支えに
留吉さんの孫でムラタカンパニー社長の村田崇さんによると、改良に積極的だった留吉さんは、イングランドからランドレース種、鹿児島から黒豚を仕入れて掛け合わせ、質の良い種豚の生産に努めていたという。近隣の農家は村田畜産の種豚に種付けを依頼。生まれた豚を家畜商だった留吉さんの息子・治男さんを通して肉豚として売りに出していた。崇さんは「養豚は畑作などと比べ安定した収入を得られるので、農家の支えになっていた」と回顧する。だが昭和40年代に入り市による工場誘致がピークを迎えると、市内の畜産農家は打撃を受け、多くが廃業。村田畜産も例外ではなかった。同社は現在、上溝で保育施設を営んでおり、「宝」であった高座豚を育てた地で、相模原の「宝」である子どもたちの未来を育んでいる。最後に崇さんは「共進会での記録は相模原初の『日本一』ではないか。上溝の名豚が日本に名を馳せた歴史を知ってほしい」と話した。
参考文献:『相模原市畜産会創立30周年記念誌』『神奈川県の農会』「20世紀における日本の豚改良増殖の歩み」